第47回 負債としての貨幣--MMTの哲学的解釈の可能性〈前半〉 仲正昌樹
cameraworks by Takewaki
MMT(Modern Monetary Theory)ブームに伴って、貨幣の通用力は何に由来するかという問いに対する関心が高まっている。MMTは、「貨幣」を国家が発行する債務証書(I.O.U.(I owe you))と見なし、徴税能力を持つ主権国家が存続する限り、(たとえ膨大な財政赤字を抱えることになっても)「貨幣=債務証書」は通用するはずだと主張する。
通常の経済学では、貨幣の起源について、物と物の等価交換を効率化するため、金属を価値の基準となる貨幣として使用するようになったと説明される。マルクスもそう説明する。MMTによれば、この標準的な説明を否定し、貨幣の本質は等価交換の媒体ではなく、国家が発行する「債務証書」であり、その通用力は、(徴税能力のある)主権国家の存在によって保証されている。
国家はもともと無から「貨幣」を創造し、それによって様々なモノやサービスを購入して、経済を動かしているのであり、その点で、「国債」の発行による赤字を特殊な事態と考える理由はない。私たちのほとんどは、国家が税などによって得た収入から支出していると考えるので、収入以上に支出し続ければ、家計や会社のように破綻するのではないかと不安になる。しかしMMTに言わせれば、家計や会社と違って、国家は収入の裏付けがなくても、「貨幣=債務証書」を発行する力を持っているし、現にそうしてきたし、赤字の増大によって経営破綻に追い込まれることはない。
アダム・スミス以来の(マルクス主義を含む)近代経済学や政治的自由主義は、「貨幣」を生み出したのは、自由な経済活動の主体たちから成る「市場」だと考える。国家は、「市場」の秩序を安定的に維持すべく後から生み出された添加物にすぎない。近代立憲主義の基本原理を定式化したことで知られる、フランスの小説家・政治思想家バンジャマン・コンスタンは、有名な講演「近代人の自由と古代人の自由」(一八一九)で、近代人の自由は、人々の間の「商業commerce」によって支えられており、「商業は個人を解放するにとどまらず、信用取引(le crédit)の創出によって政治権力を経済的に依存させているのです」と述べている。コンスタンに言わせれば、人々の間の私人としての「信用」に基盤を置く、(少なくとも近代の)「貨幣」は、ある意味、(近代)「国家」を越えた存在であり、「国家」が「貨幣」をコントロールしようとしても不可能である。
「信用」は、「貨幣」と「国家」及び「市場」の関係を考えるカギになる。英語の〈credit〉は、「信じる」という意味のラテン語〈credo〉から派生した言葉であり、ドイツ語で、「債権者」を〈Gläubiger〉、つまり「信じている gläubig」者、信仰者と呼ぶ。「負債」という意味の英語の〈debt〉やドイツ語の〈Schuld〉、宗教的・道徳的な意味での「負い目」、つまり「罪」を意味することもある。これらの語彙に象徴されるように、相手を「信用」して取引したり、金を貸し出したりする行為には、「信仰」に似たところがある、あるいは「信仰」と深く関わっているように思える。
自分と同じ信仰共同体に属し、同じ神を信仰する人であれば、全く何の関係もない人よりは遥かに「信用」できる。近代において、信仰の共同体の力は弱まり、人々はもはや「信仰」だけで繋がることはできないが、代わりに「貨幣」を介して、新たな「信用」関係を培っていると見ることができる。
現代において主要な取引手段となっている紙幣は、物質として見た場合、ほとんど使用価値がないし、電子マネーには物質的実体さえない。考えてみれば、金や銀などの貴金属の貨幣も、それらが装飾品として使われることもあることを除けば、それほど使用価値は高くない。人々が、(自分にとってどうかはともかく、他の不特定多数の人にとって)美しいとか神秘的だとかと「信じ」なかったら、貴金属にも貨幣として通用する根拠はない。
銀行などの金融機関を介した取引では、現金を介さず、預金口座の間で数字をやり取りしているだけである(=信用創造)。従って、国家が発行する紙幣や硬貨を遥かに上回る"量"の貨幣が社会を流通している。狭義の信用取引に限らず、私たちは、実体のない「貨幣」が私たちの間を行き来しているという虚構を「信じ」、一度受け取った「貨幣」は、額面通りの価値があるものとして、任意の第三者に受け取ってもらえる、つまり「通用する」と「信じ」ている――ドイツ語では、「通用する」あるいは「効力」があるという意味の動詞〈gelten〉と、「貨幣」を意味する〈Geld〉は、語源を共有する。「貨幣」についての約束事を信じていなかったら、社会は崩壊する。その意味で、私たちは貨幣を媒介とした、信用(信仰)共同体を形成している。
では、どうして、「貨幣」という半虚構の存在が、額面通りに存在し、通用すると信じることができるのか。ゲーテの戯曲『ファウスト』第二部(一八三三)で、メフィストフェレスの助けを借りたファウストが、財政危機に陥った帝国を救うため紙幣を導入する。彼らはまず、宮廷で富の神プルートゥスが登場する仮面劇を催し、宮廷全体が湧きたっているどさくさに紛れて、皇帝にある文書にサインさせる。その文言をそのまま紙切れの上に印刷し、紙幣として宮廷の支払いに使うように取り計らう。そこには、「この紙片には千クローネの価値がある。帝国の地下に埋まる無数の宝をその抵当とする」、と書かれている。自分が署名した自覚が薄かった皇帝はうろたえるが、廷臣たちは、既に宮廷の外で、羽が生えたように飛び交っている紙片を元に戻すことはできません、と告げる。
このエピソードは貨幣を支える「信用」について二つの解釈が可能であることを示唆している。一つは、皇帝が象徴する国家が「価値」を保証していることによって「信用」が生じ、流通している、という解釈だ。ただし、この国家による保証は、国家がかなりの量の地下の貴金属を保有していること、MMTをめぐる現代的文脈に引きつけて言えば、国には更なる経済成長の余地があり、その一部を徴税する能力を政府が持っていることを前提にしている。もう一つは、紙幣の価値を信用して受け取って、支払いに利用する臣民のネットワークが現に存在しているという事実それ自体が、通用性を継続的に再生産している、という解釈である。そうなった原因は何であれ、事実として、自分の周囲のほぼ全ての人が「貨幣」で取引をしているのだから、自分も彼らと同じように貨幣を使えるはず、という期待が、貨幣の通用力を生み出しているわけである。
このように考えると、MMTは、起点となる王(国家の権威)の署名を重視し、普通の経済学者やコンスタンのような自由主義者は、支払い行為の連鎖を重視している、ということになる。後者の見方に立てば、国家が崩壊しても、貨幣で広義の信用取引をする人たちの連鎖が続く限り、貨幣は通用するということになろうし、前者だと、貨幣は国家と運命を共にするということになろう。前者の見方に立つMMTは、国家主権の裏付けがない、ビットコインのような仮想通貨を貨幣と認めない。これは、貨幣の本質をめぐる哲学的な対立だ。
MMT自体は通貨・金融の視点からの経済理論であって、独自の貨幣の哲学を持たない。そこでMMTは、自らの「国家―貨幣」観を哲学的・歴史的に正当化するため、文化人類学者デヴィッド・グレーバー(一九六一―二〇二〇)の『負債論』(二〇一一)、ゲオルク・フリードリヒ・クナップ(一八四二―一九二六)の『貨幣国定論』(一九〇五)、アルフレッド・ミッチェル=イネス(一八六四―一九五〇)の「貨幣とは何か」(一九一三)「貨幣の信用理論」(一九一四)などを参照する。以下、この三者の内、MMTが特に強く依拠しているイネスの議論を見ておこう。
〈後半〉につづく