キングクリムゾンの13年ぶりの来日にともない河出書房新社、シンコーミュージックから次々と単独の書籍が出版された。両者とも各界多数の方々が寄稿され興味深い本ではあった。しかしそこからは、期待していた"(半世紀弱の歴史を持つロックバンド)キングクリムゾンとは何か"ということについて納得のいく言説を私は得ることができなかった。"Robert Fripp的な何か"という答え以外に。実際各時期に関してはそれぞれ得るものはあったと思う。
私は70年代に初めて日本盤でクリムゾンを聴いた。そのためか"Lizard"には思い入れがある。その後オリジナルレコード、プロモオンリー物、からブートレコード、果ては海外のライブカセットテープトレードなど当時自分が手に入るものはすべて購入、入手し、貪るように聴いていた。その頃はビデオ映像のPALからNTSCへの変換ですら大変だった。そんな時代である。
81年にバンド:ディシプリンが突然Frippの一声で新生"変容"クリムゾンとなり結果的に、再結成し、早々に初来日となった時も浅草国際劇場に連日通った。
81年のレコード"Discipline"に対して当時日本ではメディアも含め否定的な意見が優勢であったと記憶している(アヴァンギャルド、フリーなど広範囲に音楽を聴いている人達からも)。トーキングヘッズのRemain In Lightやスティーヴ・ライヒなどのエピゴーネンのように解釈されていたようだ。所謂プログレファンからはFrippはスーパーグループを結成するといい、米国人を入れ、リーグオブジェントルマンから引き継いだ踊れないダンスミュージックをまたやっている等と言われることもあった。さらに当時J.Wetton(元メンバー)からも「クリムゾンは英国のロックなのでDisciplineをクリムゾンとしては認めない」というような話が出ていたような覚えがある。
しかし私自身は一旦74年に消えたキングクリムゾンが"まさしく再生(revive)した"と歓喜したことを今も在り在りと思い出す。
81年12月のライブで私は初めて生で動くFrippを見た。Fram By Framで過剰に素早く、過剰なシークエンスをアップダウンのピッキングとフィンガリングでアクセント、ミュートを変化させ続けながら演奏する。ミスタッチするとそこからまた別の反復、循環が始まり継続していく。ロックなのに椅子に座りながら演奏するFrippがそのような感じだから他のバンドマン達も影響干渉され、Frippを含め相互干渉しっぱなしの緊張が循環、増殖する。
反復だからこそ厳密には反復でなくなるように。
B.Brufordはというと彼の演奏と即座にわかる高いチューニングのスネアは健在だったが、ハイハットの妙技を"あえて捨て"、多数のオクタバン、シモンズを導入。上肢が交差することは少なく、四肢をバラバラに動かし、涼しい顔で変則ポリリズムを奏でている。T.Levinはチャップマンスティックを弾きこなす(当時はこれだけで普通ではなかった)。そしてA.Belewはトーキングヘッズの時と同様にエフェクターを弾いて、終始ヘラヘラ、Redを演奏している時もダンスミュージックよろしく踊っている。しかし彼にとって演奏が難しい曲の時(ギターらしく弾くとき)は真顔になる。富士Roland(?)のシンセギターを二人とも使用していたが、改造されているのか切れ味反応も鋭い。
至近距離から観たこともあってか今でも在り在りと思い出す。
前記のように同じ曲目でも全ての日で違い、フレームはあるにはあるが常に動的で反復増殖し、はみ出していかんばかりの焦りのような緊張感が感じられた。
ヘッズのRemain In Lightは少ないコード、リズムがキープされたなかを多人数の音が出入りするかたちで曲が構成されている。ライヒのMusic for 18 musiciansは譜面にそって正確に演奏されるが人数がいると結果的に自然に唸り、波が生じ、合成パターンが現れる、それで良しとする曲(漸進的位相ずれ過程)。「テープで偶発的に起ったモアレ現象を、西洋の楽器と音楽語法を用いながら、人工的に管理、構築しようとする試み」(内田学:最小限の反復のズレが招いた新しい耳、Studio Voice vol.401より引用)。
81年のクリムゾンは元々アルバム≒テクストの曲を正確に再現する気はなく、表層的なリズムキープには拘らず、小さい細かな間違いからさえも新しいパターンを見出し、演奏者の癖(なまり)も活かし相互に動的に変化していく。ロックなのでフリーミュージックなどとは異なり、取りあえず曲という枠がある白い即興(ad lib)ダンスミュージックだった。
これら3者を関連づけようとすると、共通点は所謂反復で、しかも各々反復の意味内容は異なり、そうなるとこの場合の反復は表層的で均一化された事柄ということになりそうだ。
実際70年代後半から81年頃にFrippはBelewのいるヘッズやライヒの公演を観に行っていたようだ。ライヒ初期の作品には意図的な位相のずれからパターンを引き出し、反復の後にユニゾンに達する曲があり、この点においてはDisciplineの楽曲と部分的に似ていると言えなくもないが、一方ではヘッズのI ZIMBRAで強力なリフを演奏し、Eno&ByrneのRegiment(どちらも制作はRILの前)にもFrippはクレジットされている。
そのような付帯情報をもって、何処が"根源"かなどといってみても、誰が、何が神から近いか、ミメーシスがどうしたこうしたという不毛な話に、ロックミュージックにおいてさえ落ち着いて行きそうなので、"その方向ではあえて考えない"ようにした。
丁度今年クリムゾンの来日が発表になる少し前、
ある事をきっかけに多摩美術大学芸術人類学研究所の鶴岡真弓所長が著された"ケルト/装飾的思考"を拝読する機会を得た。
表紙、巻頭の写真(ダロウの書、ケルズの書)、さらにリンディスファーンの福音書を見た段階でキングクリムゾンの3rdアルバム"Lizard"のジャケットを想起したが、
それ以上に何よりも本文の内容、ケルトとJ.Joyceのことが書かれた鶴岡先生の文章文体から、私なりに"キングクリムゾンとは何か"の解答を得ることができた。
ボーンマス出身(イングランド)のFrippとGiles兄弟を元に、I.McDonald 、P.Sinfield 、G.Lakeが加わりP.Gilesが抜けクリムゾンの1stアルバムが制作された。
Frippの母親はウェールズ出身、Sinfieldの母方がアイルランド系であったり、GGFにJ.Dyble(Fairport Convention)が一時在籍したことがあるにせよ、クリムゾンは一般的にケルトの音楽、アイリッシュミュージックとは言われない。だからといってケルトと関係がないともいえないはずである。
Lizardのジャケット、Disciplineのジャケットの組紐文様(UK LP初回盤などは型押しで浮き出している)、DGMのinner KNOT、FrippのIONAへのゲスト参加などからもなんらかのaffinityがあると推測されよう。
ここで全くその関連から書かれたものではない鶴岡氏の文をこちらの一方的な判断で分割、引用することで、私なりに"キングクリムゾンとは何か"勝手気儘に自問自答してみたい。(鶴岡先生、無礼を何卒お許しください)「ヨーロッパ北方の「野蛮」として忘れられたヨーロッパの基層文明」「もうひとつのヨーロッパの源流」「周縁」などの"方向から考えてみる"
「想念が視覚化されるとき、それは〈文様〉という象となった。その文様とは渦巻であり組紐であり動物である。それらは決して単一パターンで表現されることはなく、つねに相互連動している。--- われわれをにわかに襲う眩暈はまず第一にこの文様の群れの連動作用によっている。渦巻が旋回しながら他者を巻き込み、組紐がうねりながら一方を絡めとり、動物が互いに噛み合い闘争している。蠢きは永遠に続くようにみえる。」
「「フラクタル」という用語がラテン語の「フラクトゥスfructus(壊れた・破られた)」を語源としているように、」
「文様が次々とミクロの位相をつくり出し、ひとつ前のレヴェルで提示された関係を限りなく次なるレヴェルで否定していくというはぐらかしを押し進めるのである。--- 累乗的なアシンメトリーの生成が見かけの安定的シンメトリーをつねに内部から揺るがしにかかっている。」
「顛倒、歪み、逆転、裏がえし、変貌、そして増殖。そんな光景が---繰り返し立ち現われる。人間のつくり出す造形が、「空間に錨をおろした堅固な世界」を表わすか、「持続のなかで変動してやまない流動的世界」を表わす(ルネ・ユイグ)かのいずれかに属しているとすれば、明らかにケルトは後者をめざすものだ。」
「「自分の作品を理解してもらうために」この『ケルズの書』の覆刻版を見せているという事実がある。そのときジョイスは入り組んだケルト文様の細部をわざわざ拡大鏡で彼女に示し、そしてこう言ったのだった。
これこそぼくが自分の作品でやっていると感じたいことなんです。作品のどの頁を取り出しても、これがほかならぬこの作品だとわかるようでありたいのです。」
「ユングはジョイスの文体について「仮借ない流れ」と形容し、「呼吸を奪うような、それとも窒息させるような、耐えられぬまで充実した空しさを、いとも残酷に表現する」とも評した。この言葉は、---「装飾的思考」を言い当てている。」
「祖国から自らを追放しつつジョイスはダブリンをつよく意識しそれに向き合っていた。定点なきエグザイルはダブリンに牽かれつつ、また離れ、また牽かれながらも、さらに離れていく。ジョイスの作品と実人生の軌跡もまた螺旋を模倣する。こことここでない何処かが危うい均衡のなかに意識され、次なる磁場へと人をかりたてる。ここに留まれば、またさらなる遠くへ旅立とうとする欲求がふと涌き起こるのだ。それはケルト的なエグザイルという内なる魂の衝動に通じてはいないか。」
次回に続く
参照文献他:
ケルト/装飾的思考 鶴岡真弓 ちくま学芸文庫
THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015
ケルズの書 バーナード・ミーハン 鶴岡真弓訳 岩波書店
Art Anthropology 10 多摩美術大学 芸術人類学研究所
文芸別冊キング・クリムゾン 二十一世紀的異常音楽の宮殿 河出書房新社
THE DIG Special Edition キング・クリムゾン シンコー・ミュージックMOOK
アメリカン ミニマル★ミュージック ウイム・メルテン 細川周平訳 冬樹社
STUDIO VOICE 2009年 Vol.401
クリムゾンキングの宮殿〜風に語りて シド・スミス 池田聡子訳 ストレンジデイズ
KING CRIMSOM Starless and Bible Black (ILPS 9275) "Fracture"
KING CRIMSOM Larks' Tongues in Aspic (ILPS 9230) "Exiles"