−現代のArts & Craftsによせて
写真家の竹脇さんにご紹介頂き、鞄作家の和井内京子さんにバッグを作ってもらった。昨年の11月に六本木のミッドトーキョーギャラリーで行われていた『男のかばん展』という和井内さんのバッグの展示会に足を運んだことがきっかけだった。ギャラリーの白い空間の壁に写真におさめられた鞄と男(楠原映二氏、巻上公一氏など)たちとともに、写真に写されていた鞄の現物が展示してあった。選び抜かれた素材をもとに手作りで丹念に作り込まれた鞄は、その1つ1つがユニークで圧倒的な存在感があった。
一緒に訪れた菩提寺医師になんだったら注文してみればといわれ、ついついその気になってしまった。すぐに調子に乗ってしまうのは私の悪癖であるが、これは逃しがたい貴重な機会だと思い立ち、注文することにした。作家や職人にビスポークで商品を製作してもらうのは、はじめての経験である。これまで既成の工業製品のバッグしか使用してこなかった身からすれば、かなりの冒険であった。
こちらの要望としては、たすき掛けができて、日頃仕事のために頻繁に持ち歩いているMacBook Airが入るポケットをバッグの内側につけて欲しいとお願いしたくらいである。あえて細部に渡る注文をしなかったのは、クリエーターである和井内さんになるべく自由かつ快適に製作してもらいたいと考えたからだ。和井内さんは、その時の私の写真なども見て、イメージを膨らませてバッグを製作してくださったようだ。ロンドンにある工房に世界中から集められた和井内さんお気に入りの無数の生地や素材から、彼女自ら選定し、手ずからバッグを完成させてくれた。
和井内さんにお話を聞くと、まずアルゼンチンの羊の青い革が私のイメージと結びついたそうだ。青の羊の革を起点にして、ハンガリーのアンティークの麻、アフリカのマリで染めた生地、イギリスの織物、ストックホルムの1950年代の生地などを用いて、バッグを完成させてくれた。それらの世界中から取り集めた素材について嬉々として語っていた和井内さんは、どうやら生地や素材の蒐集家(マニア)のようだ。和井内さんによれば、バッグそれ自体を作る過程よりも、それらの素材を用いて、どのようなバッグにするか想像する過程のほうが重要で面白いそうだ。できれば長く使って欲しいので、その人の生活スタイルやニーズになるべく合わせて作品を作っているとのこと。何か不調などがあれば、和井内さんが改めて調整や修理をして下さるとのことであった。
初めての"ビスポーク(Bespoke)"の経験は、改めてこれまでの私自身の消費生活の在りようを顧みることを促してくれた。
1970年に生まれた私にとってフォーディズム的な大量生産−大量消費を前提とした工業製品は、生まれながらの生活環境のベースを作ってきたものだ。機能が優れたより良い安価なモノを手に入れることは喜びであった。そして80年代以降の日本の爛熟した消費社会を彩ってきたポストフォーディズム的な多品種少量生産に基づいた工業製品を消費してきた世代でもある。優秀なデザイナーたちによって、消費者の個性を彩るように演出された煌びやかな商品群は、私たちのささやかなナルシシズムをやさしく包み込んでくれた。
消費社会を彩る商品群に囲まれ、私達は安楽な消費生活を送ってきた。けれどもそれらの商品群は、同時に私達の生活環境のベースを解体するものでもあった。大量生産・多品種少量生産に関わりなく、それらの商品群は、速やかに大量廃棄される運命にある。ジャン・ボードリヤールなどが指摘したように、私達の消費社会は、たんにモノを消費するのではない。現代の消費社会は、消費の速度を上げることで、使用可能な大量の財を破壊し新たな財の需要を創出しなければ、社会秩序を維持できない仕組みになっている。
財を大量生産し大量廃棄(破壊)する社会は、当然、環境破壊へと直結している。またより安価な商品を求めることは、生産における安価な労働力の需要を高め、先進諸国の産業を空洞化させることになった。より安価な商品に囲まれた快適な消費生活を求めることは、実のところ私達の生活の土台を切り崩すことに繋がっていたのだ。
それまでの生活を古びたものへ変える、利潤や効率を追い求める資本主義的な工業生産と消費生活に抗する感性は、既に19世紀にウィリアム・モリスが主導するArts & Crafts運動によって現実のものとなっていた。モリスは、その場かぎりの儚い快楽や利便性を追い求めるのではなく、友愛と連帯を基礎におき、職人技や芸術の美を日々の生活に取り入れることを夢見た。モリスは「生活の役に立たないもの、美しいと思わないものを、家に置いてはならない」というArts & Crafts運動の理念を掲げた。
モリスの死後百年以上たった現代においてもなお、現代人の多くは、その場限りの快適や安楽な生活を求め続けている。その結果、私達は、生活の細部に至るまで自らのささやかな生活を根本から解体しかねない危ういモノに取り巻かれてしまっているのではないだろうか。
科学技術と結びついた工業生産は、もはや個人や職人の技では制御不可能な巨大な生産機構や生産物を生み出し続けている。それらは当然、それまでに地球上に存在していなかった破棄物の処理問題や、複雑化してゆく生産機構の制御が困難になるというリスクを増大させてきた。
科学技術の進歩と結びついた工業生産は、人類学者のレヴィ=ストロースが指摘した"エンジニアリング(engineering)"の仕事である。それらは理論に基づいた厳密な設計に基づいた仕事であり、数多くの専門家によって担われる。そのためアマチュアがその過程に介入する余地が狭まってしまう。このようなアマチュアリズムを閉め出すエンジニア的な仕事が私達の住まう、現代社会のベースを作りあげている。
このようなエンジニア的な仕事の対極に、和井内さんの手仕事が存在している。それは、あたかもレヴィ=ストロースが指摘した人類が古くから行ってきた"器用仕事(bricolage)"のようである。器用仕事とは、厳密な設計図はなかろうと、身近にある素材から創意工夫によって、本来の用途とは関わりのないさまざまな物を作り出していくものである。器用仕事は、当然、単独の制作者の力量の枠内に収まるものである。
とはいえ和井内さんの作品は、極めて現代的なものである。モリスのArts & Crafts運動は中世的な手工業の世界を理想としたものであったが、和井内さんの作品は、手仕事を重視するとともに美的ではあるのだが、モリスの志向とは一線を画している。その作品は、象徴的に言えば、"クレオール的"であると言ってよいだろう。
恐らく21世紀的なArts & Crafts運動は、グローバリズムやその対抗運動としてのナショナリズムやローカリズムを称揚する運動からではなく(グローバリズムを含めそれらは閉域をつくりだす傾向にある)、より開かれた<関係>の中から生じてくるのではなかろうか。その開かれた〈関係〉は、カリブ海の作家・詩人・文芸評論家であるエドゥアール・グリッサンの言うところの"クレオール化(créolisation)"を想起させる。
グローバル化した現代世界の<関係>は、複数の異なった文化や文化の諸要素を結びつける"クレオール化"を促している。グリッサンの言うところの"クレオール化"は、予定調和を踏み破る偶然性から生まれでる詩的想像力に媒介されている。
和井内さんの作品は、そのような"クレオール化"を促す詩的想像力に媒介された、21世紀的なArts & Crafts生々しい息吹を感じさせてくれる。"クレオール化"してゆく世界の中に生じる新たな倫理の生成を直観させてくれる、和井内さんのこの鞄を日々の生活の中で大切に使っていきたいと、今、私は考えている。