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第35回 根本敬ジャケット画「浅川マキ」 菩提寺光世

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手持ちのカサヴェテス作品をまた見なおす日々が続いたのは、根本敬さんから受け取った浅川マキのジャケット画からだった。年明けの雪が混じる寒い夜が続いていた。

大晦日から正月はほとんどの場合実家で過ごしていた私が父と観る映画といえば、山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬両の壺」と決まっていた。「百萬両の壺」は年越しそばや初詣と同様に父と私の恒例行事だった。入院中の父を見舞ったある正月、私は「百萬両の壺」の映画のシーンを筋書きに沿って話して聞かせた。ところどころは抜け落ちてはいるけれど。その年の秋、父が息を引き取って以来「百萬両の壺」は見ていない。
昨年大晦日は朝から掃除に精を出し、一段落を終えた頃は日もすっかり暮れていた。その夜はニキータ・ミハルコフ監督のナージャ3部作をまた1部から観なおした。父と娘のラブストーリーが「百萬両の壺」の代役を務めてくれた。
翌元旦は夫が朝から外出し、都内でひとり家に残った私は浅川マキのドキュメンタリーを観て過ごした。近畿にある生家での生活は母の家系が神職であることも関係し一年を通し祭事や慣例行事とともにあったから、都内で過ごす連休はその時々に気になる映画を朝から晩までひとり気ままに立て続けに観ている。何処かで気になる上映があれば出掛けるし、なければ家にこもって観たい映画をただひたすらに観ている。好きな映画は違うソフトがあればそれも観てみる。新しいメディアがいつも良いとは限らないからだ。フィルム撮影されたもので、フィルム上映以上に良いと感じた映画は未だないけれど、この先のことは分からない。それはさておき元旦に浅川マキの映画を選んだのは、昨年末に根本さんにマキのジャケット画制作をお願いしていたからだ。

12歳で実家を後にした。横浜にある全寮制の中高一貫校に入学したためだ。私が浅川マキを知ったのは、親元を離れ数ヶ月が経ち、ようやく許された外出から間もない頃だった。新入生は入学からの数ヶ月間は外出が許可されない。制服は式典の際に着用するもので、弁天通りに代々続く洋裁店の主人が採寸するパターンオーダーだった。それとは別に新入生は普段着として寮内服と呼ばれる上下服を着用しなければならなかった。丘が二つも三つもある広大な敷地に建物が点在する学校生活に空間的な閉塞感を感じることはなかったけれど、見ず知らずの他人同士なのに誰もが自分を新入生と一目でわかる環境のなか今日も明日も日曜も24時間の全てを過ごすのは、12歳なりの疲労が蓄積していった。学校の外での出来事に関心を膨らませるには、外出ができない数ヶ月間は十分な期間であったし、それ以上に誰にも干渉されない場所が欲しかった。外出が許可されたある週末に私はひとりで元町から山下公園、馬車道から関内に抜けた。朝焼きたての匂いに誘われ元町で買ったキューブ状のチーズがぎっしり入ったパンを、公園のベンチに腰掛け食べた。外国から来た大きな貨物船が汽笛を鳴らしゆっくり入出港するのを眺めていた。その帰り道レコード店でモノクロ写真のジャケットに惹かれて買ったのが、その年に発売されたアルバム浅川マキ「灯ともし頃」だった。ひとりで歩いている写真が良かった。これが誰か別の人と楽し気に写っているアルバムだったら買ってはいなかっただろう。夕闇迫る時の頃、橋を渡る彼女のシルエットと街灯の丸い灯りが点在する、そんなジャケットだった。直ぐにも聴いてみたかったけれどレコードプレーヤーを寮内には持っていないので、長期休暇で帰省するまで待つより他はない。部屋に戻っては眺めるばかりのレコードだった。カセットテープへの録音を申し出てくれたのは、都心に実家がある同室の上級生だった。ようやく聴けるようになった私は、それから浅川マキのレコードを見つけては買った。中学も後半に差し掛かる頃になると、同室の彼女宅あての外泊届けを出してはライブに出かけた。「今日もまた、、、。若いお嬢さんがいらしてくださってるから、あまり大人の話をするのはやめ、、、ましょう」そう言ってたばこを置いてマキが歌い出したのは、何度目かに行ったライブ会場「アケタの店」でのことだった。マキの言葉は話しさえも唄だった。ステージでそう眩しくはないライトのもとで「今夜も寒いわね」と彼女が口を開くと、それは既に唄のようで観客や演奏者は彼女の語り口に引き込まれて行く。楽器の演奏を導くようにコツンコツンとブーツの踵で床を響かせ、彼女がハミングで音程を揺らしながら定めると、隣に座る中年の男までもが音に誘われ低く唸る。引き込まれた演奏者たち、会場の男や女達がマキの唄を待ちわびて空気がマキに集中してくる。静かな高揚がひとつとなって高まると、マキは乾ききった大地に落ちはじめた雨のように歌うのである。70年代終わりのあの頃はそんなライブが小さな会場のあちらこちらで行われていた。門限や外泊はおろか外出さえも許可制の寮生活で、労を惜しまず、むしろ面白がって協力してくれた同室の友人は、今なお友人で居続けてくれている。アルバム「灯ともし頃」は数回カセットテープに録音することになった。「夜」ばかり繰り返し聴き続けるので、同じところでテープが伸びたり絡んだりも繰り返したからだ。それから数十年経った今なお「夜」は、最も気にいるマキの曲。

だから根本さんには「夜」が入っているアルバム「灯ともし頃」をお願いするつもりでいた。しかしマキはモノクロの世界。それでなくても描きにくいお題のうえシルエットだけのマキを根本敬がどう調理するのか、むしろそちらが心配になってきた。彼に頼むからには根本ワールドにキャラクタライズされることも覚悟しなくてはならない。私はそれを心から笑えるほどの度量を持つ者だろうか。私は未だに把握出来ずにいる根本ワールドに近づいたり離れたりしながら様子を伺っている。とにかくまた「夜」を聴きなおそう。「灯ともし頃」、「マイ・マン」、ベスト版「DARKNESS Ⅳ」。「DARKNESS Ⅳ」に収録された「夜」が私が知る「夜」に最も近いと感じた。音源は「マイ・マン」と同じかもしれないが、「DARKNESS Ⅳ」から聴こえる音は、素のまま直に入ってくる、そんな気がする。マキの顔がアップに写るこのジャケットであればすんなりと引き受けて貰えるかも知れない。たばこをくゆらすマキも、渦巻き立ちのぼる煙さえもマキらしい。そのように注文の品は決定した。

後は待つだけのお正月は、ただマキのフィルムを観たりアルバムを聴いたりしていた。根本さんから出来上がったと知らせを受けたのは1月の半ば過ぎ、翌週は東京が混乱した程の大雪になる寒い日が続いていた。添付された画像に少し驚いた。私が知る根本ワールドにはない浅川マキがそこにあったからだ。こんなことなら描き難いかもしれないなどと躊躇せず、「灯ともし頃」を頼んでも良かったのかも知れない。
描かれたのは浅川マキそのものだった。

作家本人の解説に寄れば、裏面は昨年のゲルニカサイズの大作「樹海」に因んで「浅川マキ樹海ヴァージョン」、表面は「70年代『ガロ』系浅川マキ」という。まず一言で私なりに「樹海」を説明しろと言われれば、「生命が塊になって渦巻いてる」迫力、サイズともに大作だと応え、「浅川マキ樹海ヴァージョン」とは、と訊かれたなら「雲状に集積している生命の帯に浅川マキが溶け込んだ」作品と苦し紛れに回答するだろうか。しかもマキが逆さになって描かれている。「生命の帯」に溶け込んでいるのではなく、彼岸に移ったマキが「生命の帯」に映っているのかもしれない。そもそも彼が描くゲルニカサイズの「樹海」には彼岸と此岸の境などなさそうである。では一体「生命の帯」とは何かと尋ねられたら、その途端質問者から踵を返してまっしぐらに逃げる。この時点で私も根本ワールドに仲間入りだろう。

ならばどう表せば良いだろうか。
肝心の表面「70年代『ガロ』系浅川マキ」に進めよう。何をして70年代「ガロ」系なのかはおそらく作者の記憶と関係することだろう。とにかくそれは、私の記憶をも刺激し呼び起こした作品だった。モノクロのマキの世界は薄煙の紫に彩られ、そこにマキが沈むように腰かけ、いつものたばこをくゆらせている。たばこを吸い終えた彼女は、あの時アケタの店で話しかけるようにつぶやいて、「う」と「む」の間の音で息が続く限りの長さでメロディーを取りながら歌い出すだろう。
そのような絵だった。
画面を抜くように点在する白く浮遊する○は、どこかポップな軽さも与えながら「灯ともし頃」の街灯の丸い灯りとも重なり、その重なりが私に温かな記憶のあれこれを思い出させてくれる。不思議な○は父との「百萬両の壺」を思い出させ、70年代のマキのライブを思い出させ、それからカサヴェテスのたばこを吸うジーナの姿を無性に観たくさせた。

ジャケット画を受け取って間もなく都内にたくさん雪が降った。騒がしい音のすべてを吸収してくれる雪が積もった。映画を観るのにうってつけの夜が来た。

多くのカサヴェテス作品で重要な役を演じるジーナ・ローランズ、「オープニング・ナイト」で年齢への焦りと女優生命の限界に苦悩する舞台女優を演じている。「こわれゆく女」の彼女はフェリーニ作「道」や「カリビアの夜」のジュリエッタ・マシーナに通じる知性とは遠い無垢で愛情深い女で、ひたすら家族に尽くそうと懸命に日々を送る。メンタル不調をきたすなか、彼女の懸命さがかえって仇となり家族を巻き込み空回りしてしまう。「グロリア」での彼女はマフィアの情婦を演じる。裏切って抹殺された組員の小さな息子を組織から守るため、盾となって古巣のマフィアを敵に回す。「オープニング・ナイト」、「こわれゆく女」、「グロリア」、そのどれもにたばこを吸うジーナ・ローランズが印象的で、そのどれにも同じたばこの吸いかたがない。老いに苛立ち、あるいはコントロールが効かない自分におののき、又は何度も他人の子供を見捨てようとしながらも守っている自分の母性に呆れて腹立ち、たばこの煙を吸い込んでは吐くジーナ。

「いったんある役をある役者が演じたら、その役はイコールその役者なんだ。ーーーテクニックとしての即興は無意味だ。でも各自が役づくりをしていく手段としてなら、非常に建設的なことなんだ。私が書いたセリフが何を言おうとしているか、その理解は役者に任せている。ーーー与えられた状況の中でありのままの自分を出させることができれば、私にとってその演技は完璧なんだ。」John Cassavetes 

ありのままのジーナがどの映画のどのシーンのたばこか分からないけれど、カサヴェテスに倣って言えば、全く異なるそのどれもがありのままのジーナ・ローランズなのだろう。

そしてマキのたばこといえば、ジーナのそれとは全く異なる。ジーナが彼女の〈内〉を吐露するたばこであったとすれば、マキはたばこをくゆらせながら〈外〉に耳を傾けていた。観客の咳払い、グラスが氷と擦れ合う音、演奏者の楽器の軋み、そんな空気の響きをじっと聴きながらたばこをくゆらせている。そしてイマ、ココというタイミングで歌うのだ。

もう一度カサヴェテスに倣って、今度は根本敬をあてるなら、彼の作品は特殊漫画も「樹海」もそして「浅川マキ」もそれらは全く異なるように見えながら、そのすべては根本敬以外のいかなるものでもないだろう。

根本敬の「浅川マキ」は、たばこの煙のなかタイミングを待っている。


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「舞踊は空間と時間の芸術だ
舞踊家の目的はそのことを抹殺することだ」
『空間・時間・舞踏』マース・カニングハム『マース・カニングハム・ダンス・カンパニー公演パンフレット』64年11月

参照文献:
Interview John Cassavetes  コヨーテ No.50 Winter 2014
輝け60年代 *草月アートセンターの全記録* 「草月アートセンターの記録」刊行委員会

後日談
スコットランドに出張中のカメラマンに代わって私が作品を写真に撮った。その時発見、何だこれ。イクラの軍艦巻きだった。ぎょっとして裏を返した。あった、寿司折りだ。
してやられた。

 

 

症状の事例

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  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
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