リチャード・ローティ(一九三一-二〇〇七)は、基本的には、哲学を自然科学のような明晰な言語で、文学的な多義性を排した言語によって語られる体系的な学問にすることを目指す分析哲学の系譜に属する、アメリカの哲学者だが、三つの意味で分析哲学の変わり種、というより異端である。①ニーチェやハイデガーなど、非合理主義的と見なされる哲学者を積極的に評価する②既に過去の遺物になった観のあるプラグマティズムの復権を図る③左派であると同時に愛国者であるというスタンスを取る。
彼の著作では、この三つの特徴が不可分に結び付いている。そのため、哲学通が抱きがちの、「〇〇哲学をやっている人が△△について論じると、大体◇◇という方向に話が進んでいく」といった予想を裏切る、ひねくれた哲学者、あるいは、専門のフィールドに固執しないという意味で、哲学者的な哲学者である。
彼の「哲学」観からすると、①と②は彼にとって極めて当然のことである。彼が最も強い影響を受けた分析哲学者は、クワイン(一九〇八-二〇〇〇)であるが、そのクワインには分析哲学者たちにショックを与え、強い反省を促した「経験主義の二つのドグマ」(一九五一)という有名な論文がある。
二つのドグマというのは簡単に要約すると、(1)自然科学の実験などによって真理であると確認できる最も基礎的な事実(原子命題)がある(2)原子命題群に、論理学的操作を加えることで、あらゆる科学的命題を導き出すことができる。一九三〇年代のウィーン学団以来、分析哲学者たちは、これこそが科学的な思考法の基礎であり、哲学をこの方向で諸科学を基礎付ける科学哲学化しようとした。
クワインはこうした前提が成り立っていないことを指摘する。彼の説明は複雑だが、フランスの物理学者デュエム(一八六一-一九一六)が実験科学の諸命題について指摘したことの延長で考えると分かりやすくなる。精密な実験で結果が出ると、私たちは普遍的な真理が確証された気になる。しかし、何も知らない素人が見ても、物質の色が変わったとか、爆発が起こったとか、何かの速度が速くなったといったことが漠然と分かるだけだ。
何が起こったのか専門家に聞くと、数式で表現される既知の法則や、主要な実験器具の性質を説明して、だからこういう命題が証明されたのですと言うだろう。では、その法則が正しく、実験器具が正確にその対象を測定できるとどうして言えるのか。それはまた別の法則や実験器具によって、既に〇〇や△△という形で確かめられたことに基づいて...、と説明したとしても、では、その〇〇や△△はどうやって確かめたのか...と続いていく。遡るほど、関係する数式や実験器具は増大していくだろう。増大してく連鎖の中で、AでBを証明し、BでCを証明し、CをDで証明し、ZをAで証明するといったループが何度も複合的に生じていることが判明するだろう。
要するに、どの科学でも基本的命題や実験装置は相互に支え合う関係にあって、これは誰が見ても疑い得ない原初的事実というようなものは取り出しないわけである。全体としてうまく回っていて、この新しい命題はその中にうまくはまるから妥当である、というアバウトな性格は払しょくしきれない。
クワインは、これを拡張して、様々な対象や出来事、命題などを、言語によって厳密に定義しようとする時に、不可避的にループが生じる問題の指摘へと拡張したわけである。これは、国語辞典で「こころ」「精神」「理性」「感情」「意志」といった"基本的な語彙"の意味を説明すると、AをBで定義し、BをCで定義し、CをDで...ZをAで、というような感じでループしている現象を念頭に置くとイメージやすい――多くの場合、二つか三つの名詞が、助詞や副詞を微妙に変えて互いに定義し合う関係になっていることが多い。
様々な命題が相互に複雑にループしながら支え合っているという見方を、クワインは「全体論 holism」と呼ぶ。「全体論」的な見方をすれば、ひたすら、自然科学や数学に倣って厳密さを追求してきた分析哲学のそれまでの在り方を見直さざるを得なくなる。クワイン自身は、分析哲学の根幹を揺るがすところまで話を進めようとはしなかったが、ローティは、分析哲学どころか、近代哲学全体の在り方を問い直そうとする。
主著とされる『哲学と自然の鏡』(一九七九)でローティは、自然と科学と密接に結び付きながら発展してきた、デカルト以降の近代哲学は、人間の心を、自然界を正確に映し出す鏡のようなものと見なし、どのように「自然」(客体)と「心」(主体)が対応しているかを明らかにする認識論を精緻化し、認識論によって自然科学を基礎付けることを試みてきた、と指摘する。二〇世紀の前半に台頭した分析哲学は、「心」そのものではなく、「心」における認識を正確に記述する論理的言語の探求に焦点を映したが、「自然」を映し出す「鏡」を記述し、それによって他の諸科学を基礎付けようとする、「基礎づけ主義 foundationalism」的な態度は変わらないどころか、むしろ一層強まった。
徹底した「ホーリズム」的な視点に立てば、「心」も、心の根底にある「論理」も、様々なジャンルの相互に支え合う諸言説の産物であって、それらを実体視して、厳密に再現することで、全ての知の基礎にしようとする発想は不毛であろう。そこでローティは、基礎付け主義的な哲学はいい加減に終わりにして、異なった語彙や規則を持つ様々な言説の間の「会話 conversation」を仲介する「解釈学 hermeneutics」として哲学を捉え直すことを提唱する。
少し具体的に考えてみよう。曖昧で漠然とした対象を扱っている芸術批評で使われるAという言い回しを、より厳密で、基礎的な現象を扱う心理学や生理学の概念Bに還元し、そのBをより厳密な生物学の概念Cに、それを更に化学の概念Dに、更に物理学の概念Eと論理学の規則Fに...という風により基礎的レベルで還元していき、最終的に哲学が人間の「心」あるいは「心の論理」に見出したXによって基礎付ける、ということをやってきたのが、従来の「認識論 epistemology」中心の哲学である。
そうではなく、これらはみな異なるゲームの規則で営まれているので、どれがどれより基礎的ということはできないという前提に立ちながら、だからといって、それらが相互に翻訳不可能と諦めてしまうのではなく、領域Aで行われている言語ゲームの規則Pは、別の領域Bから見ると、BにおけるQやRに対応するしていると見ると、一番分かりやすい、少なくともAとBの関わりが当面問題になっているPという出来事に即して考えれば、...という風に実践的(pragmatical)な提案をするわけである。Aが先端医学で、Bが民法、Pが治療法のインフォームド・コンセントの是非が問われる事案だとすれば、認識論的還元ではなく、解釈学的で実践的に考えるのは当然だろう。
こうした解釈学的な実践を重視するローティは、真理を究極の実態として明らかにするのではなく、それが当面の問題解決に使えるかどうかで判定する「プラグマティズム pragmatism」を再評価する。クワイン以降の分析哲学は、再度「プラグマティズム」の精神を身に付けるべきなのである。