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第58回 〈リチャード・ローティ3〉対話の偶然性 仲正昌樹

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cameraworks by Takewaki

 三カ月前、「分析哲学者の異端者ローティ」で論じたように、ローティは人間の「心」を「自然」をそのままの姿で映し出す鏡のように見なして、「心」の厳密なメカニズムを明らかにすることで、全ての知を基礎付けようとした近代の認識論的哲学の間違いを指摘し、様々な視点を取る学問や世界観の間の「会話 conversation」を促進する「解釈学」的な役割こそ哲学にふさわしいと主張した。
 ただし、「会話」といっても、ハーバマス(一九二九- )のコミュニケーション的行為の理論のように、あらゆる人にとっての共通了解の基盤となる「コミュニケーション的理性」とか普遍的な「討議規則」のようなものを想定しているわけではない。ハーバマスもローティも、ラディカルな体制変革を前提とすることのない、言わば、現実的な左派であり、文化的な慣習に根ざした言語慣習・実践の中に、他者理解の基盤を見出そうとする姿勢において似ているようにも見えるかもしれない。しかし、万人が共有できる普遍的合意が可能である、あるいは、万人がそれを目指しているという前提で、コミュニケーションの進化論のようなものを展開するハーバマスと、どのような対話が可能であるかは、対話の当事者が置かれている歴史的状況、文脈次第、つまるところ、偶然に左右される、という割り切った態度を取るローティでは、哲学的思考の道筋が全く異なる。
 当事者たちが合意することができず、暴力的な紛争に至るような事態が生じ、それに論評する必要が生じた場合、人はみな本当は普遍的合意を志向しており、その志向は現実の中に何らか形で表れているという前提に立つハーバマスであれば、普遍的合意への志向を挫折させている要因が何か考え、それを取り除くためにはどういう制度的な手当てが必要か、という見地で考える。いかに「対(会)話」を強調しても、どうしても、世界の進んでいくべき方向性を見据えた設計者・啓蒙主義者のような語り口になる。そうした語り口は、「原初状態 original position」で「無知のヴェール veil of ignorance」の下に置かれて、様々な自己中心的な偏見を剥奪された仮想の状態にある人たちが、普遍的な正義の原理である「正義の二原理」を選択することに合意する状況をシミュレーションしてみせた初期のロールズ(一九二一-二〇〇二)に似ている。
 それに対して、「会話」を「コミュニケーション的理性」のようなものによって基礎付ける(found)ことを拒否し、徹底してプラグマティストであるローティは、「会話」が成り立つのは、両者が同じような言語や世界観、経験をある程度共有していた、という歴史的偶然にすぎない、と考える。決定的な敵対を回避して、「会話」を成り立たせるには、普遍的な理性とか人間愛に訴えるのではなく、それぞれの文化・歴史の中に理解し合うための手がかりになりそうなものはないか「解釈学」的に探究し、何か見つかれば、それを教育や文化的交流など、実践によって補強していくしかない。究極の根拠などないので、予め定まった方法論があるわけではないし、うまく行く方法が最低一つはある、という保証もない。
 八〇年代に入ってからのロールズの基本的スタンスの変化について論評する論文「哲学に対する民主主義の優先」(一九八八)はそうしたローティの姿勢・戦略を端的に示している。ロールズは「原初状態」や「無知のヴェール」の下での仮想実験の有効性自体は否定しないものの、議論の焦点を、仮想の世界における可能性ではなく、異なった価値観を持った人たちが対立を孕みながら共存する「現実の社会」でどのようにして「正義」の原理について合意し、制度化するのかという実践的な領域へと移してきた。そこでロールズは、アメリカの歴史をモデルにして、異なった包括的教説(≒世界・宗教観)を持って対立している諸集団がいかにして、自らの教説の基本を維持しながら、民主的な政治の仕組みについて他の集団と合意(=重なり合う合意(overlapping consensus))を形成し、憲法に組み込んでいく過程を描き出し、それをもう一度活用すべきことを示唆している。
 そうしたロールズの変化は、彼が哲学上の整合性よりも現実的な改善を志向するようになったことを示している、とローティは見る。ロールズが提唱するような正義の構想は、アメリカという恵まれた環境だからこそ可能であって、文字通り、普遍的な原理に根ざしているわけではない、と事実上認めた。そういう前提で、ローティはロールズの転向を歓迎する。左派を自認するローティは、社会的弱者に有利な形で再分配を正当化する、ロールズの格差原理自体は評価するが、それが人間的本性に根ざしており、どんな人でも十分に理性的に考えられる環境(=原初状態)にありさえすれば、合意するはずであるかのように論を進める初期のロールズの哲学優位の、頭でっかちな議論は受け入れない。
 このようにアメリカという共同体が、リベラリズムが栄えることができる恵まれた諸条件を備えていることを強調するローティだが、彼はコミュニタリアン(共同体主義者)であるサンデル等とは違って、形式化された権利概念や法的手続きを重視する現行の「自由民主主義」には限界があるので、「共通善 common good」に基づいて公共意識を育成する「共同体」を復興しなければならない、というようなローカルな基礎付け主義にも与しない。共同体の全員が共有する「共通善」がなければ、政治はうまくいかない、というコミュニタリアンの発想も不毛である。
 当面の問題がなかなか解決できないからといって、誰も見たことがないラディカルな新体制や、近代的理性に汚染される前の体制を求めるのではなく、現行の体制に備わっている手段でとりあえず、可能な限りの改善を試みる。現行の体制に歴史(哲学)的必然性がなくても、徒に不安があることはない。そうした、いかにも哲学者らしい拘りに陥らないのが、ローティだ。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害