loading

第60回 優しい闇--『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』エンディングを巡って 伊左治直

  IMG_2180.jpeg

photo by s isaji
                            

 田舎の一本路を去り行くトラックの荷台からは、回転木馬の顔が名残を惜しんでいる。楽しげに後を追う子供のスキップ。延びる、強烈なまでに黒い影もまた、踊っているかのようだ。だが、郵便配達夫の格好をしたその子供と木馬との距離の拡がりは、我々も共に、その村を去ってゆくことを感じさせずにはおかない。愛らしい「Fin.」の文字の後に訪れる暗転のなか、僅かに残るテーマ音楽のラスト2小節、vibraphoneの響きの美しさ。--タチの長篇第一作『祭の日』(邦題:のんき大将)パートカラー版のエンディングである

 さて、第二作『ユロ氏の休暇』(邦題:ぼくの伯父さんの休暇)のラストでは、ヴァカンスの海岸に滞在していた全ての訪問客は「日常」の待つそれぞれの家へと還っていく。そして最後にユロ氏もまた、あの、おんぼろ車に乗り画面を横切り去ってゆく。あの印象的な破裂音を残して。画面には誰もいなくなった浜辺の風景だけが残りそして、静止画となった風景には切手が張られる。思い出の絵葉書にかわるのだ。
 その瞬間に我々の時間もまた、ヴァカンスは過去となり、今この時へ一瞬にして引き戻される。それは僅かにcrescendoしたテーマ音楽のラストと綺麗に一致して暗転。

 『祭の日』『ユロ氏の休暇』ともに、美しくも切ないラストシーンをタチは用意している。タチの音楽や効果音まで含めた「音」へのこだわりはよく知られているが、これら二作品ともに、エンディングの画面と音楽との関りは綺麗に一致する。
 だが、最も良く知られる第三作『ぼくの伯父さん』のエンディングで、この 「画面」と「音楽」の関係は異質のものとなってしまう。ラストのカーテンたなびく窓のシーンの消えた後、音楽だけが55秒もの間、暗転の中を延々流れるのだ。
 何も映し出されることのない時間。一分弱という時間を、普段の日常生活の中なら短いと感じるかも知れない。しかし116分間、映画内の時間と同期していた我々は、突如あらわれる闇の長さに、途方に暮れてしまう。普通の映画であれば、ここにエンドロールなどが流されるし、我々はこの時間が、何をすべき時間なのかを知ることができる。

 通常、映画本編の後のエンドロールが流れる中を、客席では何が起こるだろうか。帰り支度を始め、すぐに席を立つ人。小声で隣席の友人と話す人。勿論、最後まで画面を見つめる人もいる。そう、言うまでもなく、これがどの作品、どの劇場であっても頻繁に見受けられる風景なのだ。そこには受動からの開放感がある。
 だが、『ぼくの伯父さん』のエンディング、この「何も起こらない画面」を前にして、我々のあいだには奇妙な現象が起こる。
 本編が終わり、画面が暗転して5秒、10秒、客席ではまだ音楽の余韻に浸りながら映画を回想する「余裕」がある。が、続く音楽。それは一向に終わる気配がない。本編が終わり席を立とうとした人は、再び座ってしまう。エンドロールの明かりは、時として手荷物を確認し席を立つには十分な照明にだってなりうるのに。それすらもない暗闇が続く。一体この映画は本当に終わったのだろうか。何かを「観る」ためにここに居るというのに。みな一様に落ち着きがない。この手持無沙汰な時間を前にして、客席には期せずして「そいつはタチっぽい」1風景が出現する。
 これはなにも客席に限った話ではない。上映する側にしても、画面暗転後の時間の扱いに確信があるとは思えない。私が劇場で観たのは、試写を含めて計4回。そのいずれも客席の照明を上げるタイミングは異なっていたのだから。
 しかし、タチはこのような混乱を与えたかったのか。

* * *

 私が初めてタチの作品に接したのは、この『ぼくの伯父さん』。きっと、多くの人がそうだったろう。私が観たのはNHK-BSの深夜枠で、だった。まだタチの情報も殆ど知らず、予備知識といえば、かつて信頼する友人から『トラフィック』のポストカードで手紙をもらったこともあり、きっと並の監督ではないのだろう、という程度のものだった。レンタルビデオ店でも「名作」コーナーにあるし、古い映画、という意識だった。だから、作品本編には勿論魅了されたものの、延々続く暗転後の音楽には、そのあたりの尺があわなかったのだろうと、たいして気にも留めなかった。今思えばこれには、劇場でなく自宅のテレビ画面で一人、観てしまったことも大きいかも知れない。
 しかし、『祭の日』や『ユロ氏の休暇』を観るに及んで、また、彼の完璧主義を知っていく上で、このエンディングへの疑問は深まっていった。当たり前と言ってしまえばそれまでのことだが、いくら古い映画と言っても、それ以前の作品では普通のエンディングを迎えているのだ。『ぼくの伯父さん』でも、やろうと思えばそれは十分に可能だった筈だ。古いから、ではない。
 改めてその点に注意してビデオを観る。厳密に言えば音楽は一旦、画面の暗転とともに終わっており、そのまま続けざまに次のテーマが演奏されている。
 曲名で言うと映像の最後が『ぼくの伯父さん』、暗転直後に『古い街』、約26秒後から再度『ぼくの伯父さん』。つまり、前2作と同様に本編でそのまま終ることも可能だったし、もしも若干の余韻が欲しかったのであれば、『古い街』で音楽を終わらせることも出来たわけだ。まして改定魔のタチだ。後年編集する機会もあっただろうに。しかし、それすらもしなかったのだから、この55秒の闇の時間には、確信があったのだろう(異なる作曲家の2曲が一続きの三部形式に感じられたのは、よく言われるように、タチのサントラ曲全てに通じる、まさに「タチ・ワールド」の一体感ゆえかもしれない)。


 時間、ということについていえば、本編の中でも時間軸は奇妙な歪みを持っている。一見、わずか数日間の出来事のような本編の中にあって、唯一のヒロインとでもいうべき下宿屋の少女は、ただ一人急速に成長して服装や髪型が徐々に変わり、ユロ氏と別れを惜しむシーンでは魅力的な女性になってしまう。少女の頃には鼻先をちょこんと突いてみせていたユロ氏も、別れの時には照れてしまい鼻先を触れない。持て余した指先は下宿屋のおばさんへ向けられてしまう。妙に納得してしまう好きなシーンだが、それはさておき、この全編を通して微妙にずれてくる時間軸が、ラストへ繋がってくる気もする。もしも下宿屋の母娘との別れから、そのまま同一のテーマ音楽で貫かれていたなら、「古い街」を去っていく車で映画を静かに終えられるかも知れない。或は、ユロ氏が空港に吸い込まれて消えるシーン、仲良く帰るアルペル父子。これで映画を終えられる可能性もある。だが、実際には軽快なジャズが鳴り響き、異様に楽しい雰囲気となる。画面と音楽が乖離する。まだ映画は終らないのだ。アルペル家のペット、ダキら可愛い犬の群れが無人の街に散っていき、カーテンの揺れる部屋からそれを見るラストシーン。漸くここで作品全体が閉じられる。

 しかしそれでも終らない映画。暗転後も続く時間。
 先に述べたように、これまで観た計4回、全て客席の照明が上がるタイミングが違っていた。それをもって上映の完全な終了とみるなら、毎回この映画は微妙に異なっていたといえるだろう。
 それは音楽の途中であったり、完全に音楽も終った後だったりしたわけだが、しかし、一度だけ私は鳥肌の立つような感動に襲われた上映がある。2000年6月3日、池袋の劇場シネマ・ロサでの上映だ。

* * *

 この頃、シネマ・ロサではレイトショーでタチの特集を組んでいた。昼には通常のロードショーをしていたにも拘らず、劇場へと下りる階段には『トラフィック』の車線や『ぼくの伯父さん』の足跡がついていて、それに導かれるとロビーにはタチ作品のポスターや古い雑誌の記事のコピー、海外版のビデオ等々が飾られ、すっかり「タチ美術館」とでも呼ぶべき様相を呈していた。きっと、普通にロードショー作品を観に訪れた人々は驚いたことだろう。上映用のポスターもオリジナルのイラストで、プログラムごとに作品に合わせたオリジナルのポストカードを特典に用意するなど、全てにおいて手作りの素敵な企画で、それはまさに「祭の日々」だった。

 話を本題に戻そう。
 その上映では、画面暗転の約15秒後あたりから音楽の後半にかけて、およそ35秒間という長い時間をかけて、ゆっくりと場内の照明を上げていったのだった。客電を上げるという、何気ない「日常」の作業がここでは最後の仕掛けになる。音楽は、映画のBGMから会場のBGMへ、気付くと変化しているのだ。そう、映画内の時間が、我々が今いる現実の時間へと摺り変わり、映画と現実の明確な境界線が消滅してしまったのだ。なればこそ、最後の窓のシーンで外を見ているのが自分自身であって、それは劇場という「部屋」の窓になる。帰路につくべく我々がこの「部屋」を出れば、外はきっと、どこかであの世界に繋がっていると思えてくる。タチの言う「どこにでもいるユロ氏」に偶然出くわすことだって、あるかも知れない。この幸せな予感。劇場から一歩足を踏み出すと、時として現実の味気なさに白けてしまうこともあるけれど、この日の帰り道は、すれ違う些細な出来事でさえ命を与えられ、輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。
 実のところ、この客電の操作が意図されたものかはわからない。というのは、この体験を得たいが為に後日再び足を運んだが、その時はあっさりと曲の中盤で照明が上がってしまったのだ。また、タチ本人がこのような「演出」を考慮に入れていたとも思われないけれど、結果的に、この「演出」--客電操作の非日常化--は、『プレイタイム』へと続くタチの「喜劇の民主主義」を最後の最後に具現化してみせるのではないだろうか。また、その上映は、まさに「ライブ」となり、二度と戻らない「時の一回性」を顕現するだろう。更に付け加えれば、所謂ホームシアター等のAV技術が進歩した現在にあっても、これだけは劇場という装置と照明技師という演奏者なしには体験し得ないものではないだろうか。

* * *

 そして、『ぼくの伯父さん』の最後の闇が明けると、そこには『プレイタイム』の青空がある。

『プレイタイム』のエンディングでは、それが、より整理されている。
 濃密な一日がレストランのカオスを越えて朝を迎える。この緩やかなクライマックスの後の美しい朝。遊園地と化した街からバーバラを乗せたバスは空港へ向かう。軽快な音楽が映画のスピード感を一気にアップさせる。だが、あのバスは何処へ向かったのか。バスは高速道路を走り続ける。昼、黄昏、夜と1カットごとの急速な展開。2時間以上かけて描かれた「一日」を過ぎて、最後の約3分間で突如時間は疾走する。そもそも「タチヴィル」=タチの都市とは何処だったのか?いつまでも空港に辿り着かない場所。恰も竜宮城のような夢想の場所にいたかのように不思議な感覚が襲う。そして、この奇妙な時間感覚の果てに、またも音楽だけが聞こえる闇が訪れる。
 だが、『ぼくの伯父さん』との決定的な違いは、最後のシーン、夜の高速道路の画面が、もはや漆黒の中に車と電燈の明かりが浮かぶだけとなり、その後の闇を準備していることだ。夜の画面が26秒、暗転後の闇が42秒、しかしここでの闇が『ぼくの伯父さん』より自然に感じられるのは、それ以前の画面が、段階を踏んで闇へと至るのと、それを音楽が一つのテーマで貫いているからだろう。だから『ぼくの伯父さん』のように客電のタイミングに迷いはなく、音楽終了後に常に上げられている。では、ここでも『ぼくの伯父さん』のような照明の演出は可能だろうか。やるとするなら、暗転後の約10秒から音楽に合わせて、約30秒間かけて照明を上げることが可能だと思う。しかし、最後の闇へ到る過程が違うので、『プレイタイム』では、音楽終了後に「意図的」に、通常の客電操作をする方が好ましいと思える。またはそれ以上に音楽が消えた後も尚、しばしの余韻を残してから照明を上げる方が良いかも知れない。

私は以前、『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』を1本のビデオにダビングして4時間続けて観たことがある。ちょっぴり贅沢なこの時間にあっては、『プレイタイム』最後の音楽の後もビデオゆえに1分弱の黒の画面が続いていた。音楽すらなくなった闇に至っては屋外の日常音--子供の遊ぶ声や電車の音--すらも「音楽」となり、照明の演出無しにも同様の効果を上げていた。テレビ画面で観られる『プレイタイム』などタチ本人にとっては不本意極まりないだろうか。だが、ここでは別の形で、その「時の一回性」を顕現していた。

 それらの体験ゆえ、これら2作品に起こる最後の闇に、私はタチの限りない、繊細な優しさを感じてしまう。これはぼくのではなく「観た人」の映画にする2、というタチの言葉が改めて思い出される。より丁寧に、より精密に観察し、それを大切に扱えば扱うほど、結果として作品は標準型から外れていってしまう。気を衒うのではなく、愛情の、冷静な深さがそこに凝縮されているのではないかと。

ーーーーーーーーーーーーーー

消えた闇--『祭の日』『ユロ氏の休暇』エンディング異聞

 本当なら、この短文はこれで閉じられる筈だった。しかし、さすがはタチと言うべきか、そう簡単に「纏める」ことを許してはくれない。
 本文の冒頭、『祭の日』『ユロ氏の休暇』には別バージョンのエンディングが存在する(実は『トラフィック』のエンディングもかなりあやしいのだが、それはまた後日)。まず『祭の日』オリジナル白黒版であるが、これはパートカラー版と同様と思われる。しかし『祭の日』カラー版では、最後の「Fin.」がカットされてフランソワが旗を立てる指事をしている静止画の中、カラー版エンドロールが流される。本文に書いたように、愛らしい「Fin.」の文字と、暗転の中、僅かに残る音楽を聴くことができない。また、少年と木馬との距離も、途中で打ち切られるので、あまり拡がらない。個人的な想いでいえば、これは少し残念だ。暗転後にカラー版スタッフリストを追加で流すこともできたと思うのだが、「カラー」の背景をつけたかったのではないかと推察する。勿論、カラー版本編がパートカラー版より格段に素晴しいことは言うまでもないのだが。因に仏版DVDでは両面DVDという珍しいスタイルでカラー、パートカラーそれぞれの本編に加え、『カラー版製作ドキュメント』等も収録された、かなりのお得版だ。日本でもこのスタイルで発売されることを期待したい。バージョンの比較も一興だろう。この『祭の日』のバージョン違いは良く知られていると思うが、問題は『ユロ氏の休暇』。こちらには謎が残る。
 まず、本文で述べたエンディングは、03年現行の仏版DVDによるもので、浜辺の風景がそのまま絵葉書へと変わる。だが、映画館で上映されるフィルムでは音楽のラストと共に一旦浜辺のシーンが暗転した後に、再び絵葉書の静止画が数秒現れ、再度暗転する。音楽も、この静止画の数秒間だけ再度流れ、すぐに切れてしまう。しかも音楽は最後のフレーズのみが絵葉書の画面の時間分だけ繰り返される。これには継ぎはぎ的な違和感を禁じ得ない。それこそ「古い映画」ゆえに、技術的にずれてしまったのではないかと。また、日本の03年現在レンタルビデオ店などで見かける旧プリント版のビデオだと、この絵葉書のシーンは入っていない。そして日本版DVD(旧プリント)だけは先に挙げた3本と完全に異なる点がある。本編が終わり一旦暗転後に再び絵葉書のシーンが数秒間、というのはフィルムと同じだが、音楽は本編の冒頭と同じく、音楽--波の音--音楽、のスタイルで暗転後も1コーラス演奏されているのだ。つまり『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』同様の闇の中の時間が存在する。   
 『祭の日』とは異なり、本編は全く同じなのに。これはどういうことなのだろうか?ザジフィルム社を通じて版権元に問い合わせて頂いたが、執筆現在、回答は得られていない。タチもソフィーも世を去った今、まさに真相は「闇の中」かもしれない。
 以下は私の推論である。
 絵葉書の切手がカラーであることから、このシーンはオリジナル53年には存在しなかった。タチは61年に大幅にシーンをカットするなどの改定をしているのだが、切手の消印が1960と読めることからも、絵葉書は、この時に追加された。そして音楽も1コーラス入れられた。『ぼくの伯父さん』が58年と近いこと、『プレイタイム』の企画も進行していたことを思うと、このスタイルに(私が考える効果を期待したかどうかは別としても)何がしかの確信を持っていたのではないか。なぜなら、わずか数秒ならば、波の音の残る中か、無音の中に絵葉書の画面が加えられたとしても違和感はないし、むしろその方が自然に感じられる。もしかしたら、絵葉書の切手が薄いピンク色であることから、63年の『祭の日』パートカラー版製作に繋がっていったのかも知れない。
 タチは更にその後、映画『ジョーズ』(75年)を観てボートのシーンを追加している。75年と言えば、『パラード』も完成し既に『コンフュージョン』の脚本に取りかかっている年である。しかし日本版DVDにもボートのシーンが入っているから、この時点でも未だ音楽は完全に残っている。75年以降の何時改定されたのか厳密な年度はわからないが、いずれにせよ彼の没年が82年。この、長く見て7年の間にボートのシーンを追加し、それが普及した後に、更に音楽だけをカットする版をつくったのだろうか。若しくは、タチの没後にソフィーがカットしたのではないだろうか。そしてその違和感ゆえに、仏版DVDでは、デジタル処理により絵葉書の音楽のラストを本編の音楽のラストに一致するように画面を被せ映画を閉じたのではないかと。
 最後に私の感想を述べると、仏版DVDのスタイルが最も良いように思える。『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』と異なり、『ユロ氏の休暇』では「絵葉書」という映像そのものが(たとえ短時間でも)追加されてしまうので、フィルム版、日本版DVDでは、どうしてもそこから意識を新たにしてしまうからだ。では仏版DVDの画面で暗転後に音楽だけを1コーラス流す可能性は、といえば、それは無理だと思う。『ユロ氏の休暇』ではテーマ音楽は一つ。それも『プレイタイム』と異なり、はっきりした三部形式だ。全く同じ音楽だけが2度続けざまに流れるのは無理なのではないか。やはり「休暇」は静かに閉じられて、懐かしい思い出として日常の中で回想されるものなのだろう。
20241002174050.jpg

photo by m bodaiji

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害