前回述べた"Zivilgesellschaft=政治的市民社会"の成立と変化は、メディア環境と不可分である。よく言われるように、西欧の市民社会は、古代ギリシアのポリスを起源にするといわれている。西欧近代の中核に存在する"市民社会"の原型は、古代ギリシアのアテナイの"デモクラティア(δημοκρατία)"である。その古代のデモクラティアとメディア環境との関係について少しばかり触れてみたい。
突然変異のようにある偉大な民族が生まれ、奇跡的にデモクラティアという民主主義の原型となる制度を生み出したと考えることもできるかもしれない。けれどもその変異を突然のものと考える必要もない。例えばマーティン・バナールの『ブラック・アテナ』のように東地中海世界の長い歴史に位置づけ古代ギリシアを問い直す行う試みも存在するが、ここではメディア論的な視点から古代ギリシアを眼差してみよう。
古代ギリシアの民主主義といえば、まず第一にアテナイを思い出すだろう。アテナイの市街の西方、現在の世界遺産でもあるパルテノン神殿を抱えるアクロポリス付近の丘に"アゴラ"と呼ばれる広場があった。その丘にわいわいがやがやと市民達が集まり"民会"を開き討議を行っていた。
その討議は、アテナという都市国家にとって重要な頃柄(法律の策定、財政問題、公共事業、開戦や終戦など)を討論し、政治的決定を行う。その決定は会に参加した市民の"全員一致"が原則、すなわち今でいうとことの直接民主主義だ。現代の規模の大きな、国民国家規模の民主主義とは異なる。
議長は、抽選で選ばれその日一日限りの任期であった。民会は、丸一日をかけて、一年間に四十日以上も行われた。それは"声"をメディアにした対面的なコミュニケーションを基礎にした、"顔の見える直接民主主義"である。そこには規模の問題がある。アテナイの民主主義の最盛期において、民会に参加する資格のあった市民は、人数は、四万人を超えることはなかった。また行政もまた一年任期で抽選によって選ばれた市民達によって運営されていた。しかも再選は二回しか許されなかった。
けれどもアテナイの市民は、十八才以上の青年男子に限られていた。というのも彼らは同時に共同体の存続のために戦う"戦士"でもあった。最初の民主主義とは、戦う"デモス(民衆)"による"クラティア(支配)"、戦士の共同体を中核とした"デモクラティア"であった。
史上初のアテネの民主化への道は、一朝にして成ったのではない。それは、古来の部族の互酬的関係に拠っていた貴族制から離脱していく道程であった。
紀元前594年のソロンの改革は、 "ティモクラティア(財産政治)"とよばれる。それは、財産の大きさによって、四つの階層(貴族・財産家、騎士、自作農、労働者・貧困層)に分けられ、それぞれの階層に応じた権利と義務を持っていた。それら全ての市民が民会に参加できた。その後、僭主を市民の意志で追放する「陶片追放」の制度で有名なクレイステネスの改革、ペルシャ戦争に功績のあったペリクレスによってアテナイの民主制が確立されたとされる。
ここでアテナイの直接民主主義を可能にしたもう一つのメディアについて考えてみたい。それは"お金(貨幣)"である。貨幣経済の浸透こそが、アテナイの民主主義をささえたもう一つの重要なメディアであった。
アテナイの民主主義を可能にしたのは、自ら所有する財で自弁した武器で武装した重装歩兵(市民)による"ファランクス(密集戦法)"である。富裕になった平民の重装歩兵たちが、それまでの貴族層を中心とした騎兵にとって代わっていったのだ。戦場における主力となることで発言力を増した平民=重装歩兵たちが、政治の中心に躍り出る。
財を蓄え、経済的に自立した富裕な平民の成年男子こそが、貴族制を打破した"デモクラティア"の担い手であった。それはマックス・ヴェーバーがいうとことの"重装歩兵民主制"としての性格を持っていた。
経済人類学者カール・ポランニーが指摘したように、古代ギリシア世界は、冶金術の進歩による生産力の増大を背景にして、貨幣経済が最初期に進展していった社会であった。それは、数世紀をかけ、人類史において画期的かつ劇的な変化をもたらすことになった。歴史家のM・フィンリーもまた古代ギリシアが、私的所有と個人主義が浸透していった最初期の社会であることを鋭く指摘している。貨幣経済の浸透は、紀元前七世紀頃、現在のトルコ西部にあったリデュア王国で、西欧における貨幣の原型となる、"鋳貨(コイン)"が誕生したことに端を発する。
持ち運び安く、価値の計量機能を高めたコインは瞬く間に東地中海世界に浸透し、交易や経済活動を活性化していったのだ。古代の東地中海世界における貨幣経済がもたらす劇的な波頭の先端に古代ギリシアの"デモクラティア"が誕生したのだ。
古代ギリシアとは、貨幣経済の浸透によって、市民たちの私的領域が強化され、部族の互酬性が急速に弱体化していく社会であった。生産力の拡大を背景にした交易の活性化によって、自らが処分しうる財とともに、明確に共同体の共同所有から離れた、個人化されてゆく私的所有の領域が生まれた。貨幣経済の浸透によって経済力を高め、戦士としての装備を自弁する強靱な市民=戦士たちが誕生したのだ。そのような発言権を得た"市民=戦士たち"が、デモクラティアの担い手であった。
ハンナ・アーレントが述べていたように"労働"を忌避した古代ギリシア人たちの"デモクラティア"は、多くの奴隷や民会から閉め出され家政の内側に押し込められた女性によって支えられていた。すなわち古代アテナイの"デモクラティア"は、差別・排除・抑圧・支配によって私的領域と公的領域を区分することで維持された民主主義であった。現在の視点からみるならば、"デモクラティア"は、それまでの貴族制を打ち破ったとはいえ、私達が享受する現代の民主主義とは異なったかなり問題のある民主主義であった。
また"デモクラティア"を促した貨幣と経済的自律は、アルファベットという文字の発明とともに、古代ギリシア人に自律的で論理的な思考をすることを促した。最初の哲学者達は、ギリシア本土ではなく、貨幣化と商業化が進んだ植民地都市に現れる。
タレス、ヘラクレイトス、ピュタゴラスなどの最初の哲学者たちの活動は、貨幣によって活性化された商業活動を社会的背景に持っていた。書き付けられた文字によって反省的となった思考は、神話的思考から離れた、知を愛し求める"哲学(philosophia)"という運動となって現れたのだ。