人間は生まれた時から「道徳的」な存在か?近代哲学にとって、最重要の問いの一つである。伝統的な宗教や道徳的慣習の影響が弱まり、社会秩序が不安定化していくにつれ、人間は生来エゴイスティックな存在で、物理的暴力で脅さないと、いつ他者に危害を加えるか分からない存在である、というホッブズ的な見方が優勢になってきた。しかし、だとすると、私たちは、国家のような暴力装置を介して自分たちを常に脅し付けないといけないし、その暴力装置自体が信用できないので、余計に不安になる、という解決しがたい問題を抱えることになる。各人を見張る全知全能の神に見張られていないことが判明した時、社会は不安に覆われる。
そこで人間本性に内在する道徳性を見出そうとする哲学的な試みが生まれてきた。二つの方向性がある。一つは、普遍的道徳法則を発見しようとする道徳的な理性が各人に備わっていて、それに従うことで、人は自律的な存在になる、というカント的な方向性。もう一つは、各人に内在する共感能力が、社会の中での具体的な経験、他者との関わりを経て、普遍性を備えた正義へと発展していく、というアダム・スミス的な方向性--第四四回「D・ヒュームとA・スミス」を参照。カントのように理性を重視する場合、各人がそれぞれ独自に発見する"道徳法則"が、大筋において一致するという根拠があるのか、という当然の疑問が出てくる。スミスのように感情を重視する場合、共感に基づく正義は本当に普遍的なものへと発展していくのか、市場を中心とする交換社会には現にエゴイズムが蔓延しているし、仲間内の共感が排他的なナショナリズムを生み出すこともあるが、それらをどう説明するのか、という疑問が生じる。
それらに代わる、人間本性に内在した道徳基礎論として、一九八〇年代以降、有力になってきたハーバマス(一九二九― )のコミュニケーション的行為の理論と討議倫理だ。ハーバマスの議論は、言語学、特に言葉の文脈に応じた使用をめぐる「語用論 pragmatics」によって基礎付けられる。漠然と、「人間は(心の奥底では)互いに理解し合おうとしている」、と言ってしまうと、ただのオプティミズムにしか聞こえない。しかし、対話に際して私たちが、何を目指し、そのためにどう振る舞っているか、言語学的・社会学的・心理学的に考察すると、説得力がかなり増してくる。
私たちは会話において相手を騙したり、言い込めたり、脅したりしてこちらの要望を受け入れさせることを目指すこともある(=戦略的行為)が、お互いの認識を示し合って、合理的な論拠に基づく、合意に到達しようとすることもある(=コミュニケーション的行為)。例えば、数学の問題や、自然現象を支配している法則、契約や法律の正しい解釈について話し合う時、プライドから嘘をついてもいいから相手を"論破"したことにしたいと思うこともあるが、互いが理性的に納得できる「答え」を目指して真剣に語り合うこともある。そうでないと、科学技術は発展しないし、言語は情報伝達の役に立たない。
私たちが強制されなくても、発音・音韻、意味、統語法などに関する文法的規則に従っている。それによって、狭い意味での言語的コミュニケーションが成り立っているが、それだけではなく、対話の目標設定や文の並べ方、相手や状況に応じた語彙や抑揚の選択といった「語用論」的なレベルのルールにも従っていること。語用論的ルールに従わないと、何が真実なのか分からなくなる。
「討議倫理」というのは、コミュニケーション、特に正しい「答え」を共同の目標として設定する討議に際して、人々が互いに守っている一連のルールである。例えば、相手が理性的に納得できるよう可能な限り論理的に語るとか、互いの利益や立場を考慮に入れる、相手の話を誠実に聞き正しく理解しようとする、暴力や圧力で互いの発話を妨害しない、......といったことである。人間の言語に関する能力や習性からすれば、最も基本的ルールは、ほとんどの言語共同体に共通すると考えられる。
ハーバマスは、対話のための「討議倫理」をベースとして、芸術、経済、政治、法などの各種の制度における規範が出来上がっていると考える。具体的な制度は、各人の利害や価値観を取りあえず調整して、協働するために形成されているので、コミュニケーションそのもののためのルールほどの普遍性を備えていたが、それでも基礎になっているコミュニケーションや討議のルールに立ち返ることを通して、何が最も正義に適っているか、どのように議論すれば、より(コミュニケーション的行為が想定する)理想の答えに近づくことができるか、再考するヒントになる。
こうしたハーバマスの議論は、「汝の意志の格率が普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」というカントの定言命法の定式を、言語学や社会学など経験科学の知見を取り入れて間主観化する(「あなたたちのコミュニケーションのルールを、いかなるコミュニケーション共同体のメンバーでも、理性的に語り合う限り、受け容れざるを得ない普遍的なものにするよう努力せよ」)ものであり、各人にエゴイスティックな体質を否定して利他的になるよう無理強いする感じはないので、現代人にとって受け入れやすい。
ただ、そうは言っても、疑問は残る。確かに私たちは、純粋に相互了解のためにコミュニケ―ションしようとすることもあるが、日常生活のほとんどの時間、私たちはむしろ、戦略的に相手を利用するため、あるいは、合意とは関係のない単なる気晴らしのための会話に時間を費やしている。"相互了解のためのコミュニケーション"は、高尚な趣味のようなものではないのか?コミュニケーション的行為は、本当に人間本性に内在する普遍的なものなのか、ごく最近、西欧諸国などで生まれてきた文化的傾向ではないのか、西欧的な社会環境や制度・慣習がないと、簡単に崩壊してしまうのではないのか?――アーレントではあれば、コミュニケーションが制度依存的なものであることをあっさり認めるだろう。
こうした人類学的・心理学的レベルの疑問に関して、ハーバマスを補完すると思われるのが、アメリカの認知人類学トマセロ(一九五〇- )の初期人類の進化をめぐる議論だ。チンパンジーなどの類人猿は、身振り(gesture)によって相手に何かを要求したり、相手の注意をある対象や事態に向けるなど、意図伝達することができる。相手を社会的道具として利用するために、戦略的にコミュニケーションし、(自分の目的の実現のために)協力することはできる。しかし、彼らにはサール(一九三二― )などの行為論の哲学者が「共有志向性 shared intentionality」と呼ぶものがまだ備わっていない。「共有志向性」は人間のコミュニケーションの特徴である。
「共有志向性」というのは、「私たち」という視点を取る「志向性」である。哲学で「志向性」と呼ばれているのは、主体の意識がある特定の対象に向かって方向付けられていることである。「私」が何かの作業をしたり、あるテーマについて思考したりする際、「私」の意識はターゲットになる対象に注意を向け、その形状や色合い、運動状態等を表象し、その変化を追い、「私」とどういう関係にあるかフォローしている。そうした「志向性」を持つ「私」と同じような「志向性を」持っている存在であることを「私」が承知し、そのことを相手も承知し、更にそのことを「私」が承知している......という関係にある相手(もう一人の「私」)と、何かの協同作業をする時、対象を挟んだ「私」と、もう一人の「私」の関係はかなり複雑になる。
例えば、サッカーやバスケットボールで、ボールをパスし合いながらゴールに向かっていく場合、「私」がこれからボールをどうするかを(「私」の対象に対する志向性)に、もう一人の「私」が注意を向けながら自分の動きを調整していることに「私」が注意を向け(もう一人の「私」の志向性に対する志向性)、そうしたボールと共に相手の動きをも意識した「私」の動きに、もう一人の「私」がどのように反応しているかに「私」が更に注意を向け、......というような、複雑な視点の転換がかなり速い速度で進行している。そういうことが可能でないと、私たちは逃げるターゲットを協働で追いこむとか、協働で物を運ぶとか、協働で大きな紙などを壁に貼り付けるといった、比較的単純と思われている協働作業さえ満足にこなすことはできないだろう。
トマセロによると、「共有志向性」が備わっているおかげで、私たちには、「共同意図joint intentions」や「共同注意 joint attention」を形成する認知スキルを働かせ、(たとえそうすることが自分の利益にならなくても)他者を助けたり、他者といろんなものを分け合ったりする社会的動機を働かせることができる。「共有志向性」は自動的に働き始めるので、協働で実行しなければならない当面の課題が特になくても、他の人間と接した時に、私たちはしばしば、他者がどこに視線を向けていて、何に関心を持ち、何を求めているのかに自動的に関心を持つ。
初期ヒト(early humans)は、「共有志向性」を得たことで、単独では不可能だった様々な活動を行うようになった。その次の進化として、直接その場にいない他者とも協働して、「文化的」と形容されるような活動を行うための「集団志向性collective intentionality」が生まれてくる。「集団志向性」を獲得した現世ヒト(modern humans)は、同じ社会に属する仲間と同じ様に振る舞い、全体として協働事業を行うため、みんなが従うべき「規範 norm」を生み出す。同じ「規範」に従っている者、同じような服装をし、同じような仕草をし、同じ規則に従っている人間を見た時、「私」たちはそれを同胞と認識し、互いの利益を図る。そうでない人間は、敵と認識する。
初期人類は、主として指さしなどのジェスチャーを介して「意図」や「注意」を共有していたが、「集団志向性」を得た人類は、その場にいない第三者にも、自分が経験した一連の出来事を伝達するという課題に直面した。情報を広く共有しないと、みんなの行動を協調させることができない。そこで、音声情報の組み合わせで、意味を伝達する「言語」が発展してきた。トマセロによると、私たちの「言語」は、誰のパースペクティヴから見た出来事なのか、その人物はその事態をどう評価しているのかといった情報を効率的に組み込みながら、主語―動詞―目的(対象)を結び付け、かつ、代名詞などによって、異なる主体による行為を区別しながら、相互に結合させる仕組みを備えている。一人称だけでなく、二人称(共有志向性)や、三人称'(集団志向性)の視点からも出来事を見る能力に対応して、言語が発展してきたのである。
身振りや言語を通して、他者の視点を内面に取り込むことは、自己の思考や行動を、他者の視点から吟味する、反省的自己意識の形成と表裏一体の関係にある。ミード(一八六三―一九三一)がMeとI、フロイト(一八五六―一九三九)が超自我と自我の関係として呈示した、他者を介しての反省的自己意識の形成をめぐる問題は、生き残るために密に協働することが不可欠だった初期人類の進化の帰結と考えると、無理なく受け入れられるように思える。
他者の志向性に注意を向け、その意図(intention)を理解し、更に相手の意図を理解しようとする私の意図を相手に理解させようとし、それを理解した相手が私に対して抱くであろう意図を......というように再帰的・相互的に作用する志向性が、私たちにもともと備わっており、それが文化的実践によって強化されていくとすれば、その延長で、理性的合意を志向するコミュニケーション的行為や討議倫理を捉え直すことができそうだ。私たちは、自分の眼の前で他者が何か意味ありそうな行為、特に言語を用いたアクションをする人間を見ると、思わず、その「意図」を図り知りたくなるし、「意図」が理解できれば、出来るだけ協力しようとする。
そういう風に、ハーバマス-トマセロのコミュニケーション的道徳理論を理解することはできるのだが、最高度の知的コミュニケーションの場であるはずの大学に勤めていると、どうも実感とは違う、という気がしてしまう。
語学の授業で、黒板に新しい単語や表現を書いて、これを発音して覚えなさい、と指示する時、その黒板の文字を見ようともせず、ノートを取ろうともしない学生が一定数いる。ちゃんと覚えたか確かめるべく、「さっきの表現を言ってみなさい」、と言うと、何のことだろう、という表情を浮かべて、何も言わない。何が起こったのか、理解していない様子である。悪気があって、無視しているつもりではないらしい。黒板のさきほど書いた箇所を指さし、その学生をはっきり名指しして、「今すぐノートに取りなさい。書いたらすぐに声を出して読みなさい」、と言わないと、目と手が動かないらしい。
トマセロの議論だと、人間には、言語を中心とした他者の下動作を追い、その志向性を自分の中で再現しようとする、共同志向性が備わっているのではなかったか?トマセロの理論があまりに理想的状況を想定しているのか、それとも日本の学生たちが退化しているのか?