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第59回 〈ハンナ・アーレント 4〉アーレントとSNS:公/私  仲正昌樹

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cameraworks by Takewaki

  

『人間の条件』(一九五八)でハンナ・アーレントは、最も人間らしい営みである「活動 action」、言語や身振りによるコミュニケーションは、古代のギリシアポリスのように、「公/私」の境界線がしっかり引かれていることによって可能になったと指摘した。「公的領域」が、自分と対等の他者たちから成る「公衆the public」の前に姿を現し、自らの意見の真実性を伝えるべく立派な市民として活動する=演じる(act)場であるのに対し、「家 oikos」を中心とする「私的領域」は、家長(=市民権保持者)による暴力を伴った支配が行われ、(主としての家長の)生物的欲求が充足される場でもある。
 ギリシアの「家」に妻である女性や子供たちの他、肉体を酷使して「労働 labor」する奴隷たちがいた。「労働」という言葉には、創意工夫して新しい価値を生み出すというニュアンスもあるが、アーレントはそうした側面は「仕事work」という言葉で表し、「苦役」というニュアンスのある「労働」は、もっぱら人間と動物に共通する生命維持のための蓄積と消費の連鎖という意味合いを付与している。奴隷は主人の代りに「労働」を引き受けることで、主人は自由な「活動」の余地を得る。動物的な欲求、暴力的な衝動が「私的領域」の闇の中に抑え込まれ、処理・制御されていることで、市民は「公的領域」では、そうした非人間的なものを引きずることなく、立派な人物としての人格=仮面(persona)をかぶって、他者の前で活動する=演じることができたのである。
 市民たちは、自分たちの考えを他の市民たちに的確かつ効果的に伝えるため、キケロなどが〈humanitas(人間性=人としてのたしなみ=教養)〉と呼んだ技法を発展させた。具体的には、文法、論理学、雄弁術、修辞学など、市民間のコミュニケーションに役立つ、言葉を磨くための知識である。これらを基礎に、「市民=人間」が到達すべき理想像が形成されていった。しかし、これはあくまで古代の都市国家における「人間性」の理想である。
アーレントは、「経済」――〈economy〉の語源であるギリシア語〈oikonomia〉は〈oikos〉の運営術、家政術を意味する――を中心に"政治"が動き、ほぼ全ての人が何等かの形で自ら「労働」に従事するか、「労働」の管理に関心を持っている近代市民社会では、「公/私」の境界線を厳格に守ることが困難であることを指摘する。生活上のニーズに煩わされる私たちには、良き市民として演技=活動する余裕どころか、他者の演技を公衆として見つめる余裕もない。生々しい動物的な欲望が、白日の下にさらされるようになると、「公的領域」を保つことが難しくなる。
経済に追い立てられる生活に疲れた人々は、近代的な意味での「プライベート」な領域、つまり、親しい人とだけ関わる親密圏、あるいは、自分専用の書斎などの個人的空間を避難所とするようになる。無論、そうした意味での「プライベート」な場を持てない人が多い。経済との関係で、「公/私」が部分的に逆転する。
 ハーバマス(一九二九- )は、近代市民社会に生きる人々が、主として活字媒体を通じて情報伝達し、共通の利益を見出し、コミュニケーションをするようになったことを指摘し、市民社会に希望を見出そうとした。しかし、活字メディアでは、ごく少数のエリートの意見をそれ以外の一般対象に伝えるためにしか機能しない。大きくなりすぎた国家では、全ての人が自ら公の場に現れ、意見を述べて交流することなどできない。映画、ラジオ、テレビ等の二〇世紀的なメディアは、商業主義的傾向が強まると共に、全体主義体制のプロパガンダとしても用いられるようになり、市民間のコミュニケーション(活動)のツールという位置付けからかなり隔たった。
 インターネットは当初、その双方性が注目され、ネットを通して市民の自由な活動を再活性化するのではないかと多くの人が期待を寄せた。しかし、実際には、ネットを利用して政治的な主張をする人たちは、自分と同じ関心、価値観を持つ人間とだけ交流し、"周り"が自分と同じ意見の人ばかりなので、もともと持っていたバイアスを更に強めるようになっていった。更に、その仲間内で目立とうとして、意図的により極端な意見を言おうとするようになる。アメリカの憲法学者サンスティン(一九五四- )がサイバー・カスケードと呼ぶ現象だ。
アーレントは、それぞれ自立した市民が一人の〈actor〉として「公的領域」に現れ、互いの見方の違いを確認し、調節・接合していくなかで、「共通世界 common world」が構築されていく、言わば、共同での舞台芸術創作のようなイメージで、「活動=政治」を捉えた。ネットはむしろ、(かつてあったとすれば)「共通世界」を破壊し、再統合を不可能までにバラバラにしているように見える。あるいは、東浩紀(一九七一-)が言うところの「動物化」、普遍的な人間的コミュニケーションの能力を身に付けること、〈humanitas〉の放棄を推進しているように見える。
SNSは、今のところ、そうした動物化の動きを決定的にしつつあるように思える。短い言葉で瞬間的に大きな影響力を発揮しようとする人は、他人の発する特定の言葉の意味を理解しようとすることなく、条件反射的に反応するし、秘めておくべき私的な感情を、他者の目を気にすることなく吐き出す。一日中SNSに入り浸っている人の「私的領域」には、否応なくネットが介入され、落ち着いて私的な気分に浸ることができない。
SNSは「人間の条件」としての「公/私」の境界線を最終的に無効化しつつあるように見える。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害