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第45回 正義と功績 仲正昌樹

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 現代正義論の重要な論点の一つに、名誉や功績を社会正義との関係でどう位置付けるか、という問題がある。オリンピックのメダリストとか●●賞を受賞した学者、人命救助に貢献した人を、国や地域として誇るべき人、みんなの模範になるべき人として顕彰するのは、当たり前のことになっている。しかし、全ての市民は自分の生き方(善)を選択する権利があり、その権利は平等に尊重されるべきとする、自由主義、特に、ロールズ(一九二一―二〇〇二)のような平等主義的リベラリズムの立場からすると、これはおかしなことである。顕彰するということは、その人の生き方や実績が、他の人たちのそれよりも望ましいと認めることになるからだ。
「少子高齢化の日本で、子供のいないカップルより、子だくさんの夫婦の方がはるかに貴重なのは当たり前だ」、などと言ったら、多くの人が、それは生き方で差別していると言って反発するだろう。望ましいかどうかは不問にして、子育てに金銭的な補助をするだけであれば、国民一人一人の権利に基づく再分配の一環として正当化できなくはない。しかし、既に、自分の業績によってそれなりの収入を得ていて、恐らく既にかなりの名声を得ている"優秀な人間"を、共同体を挙げて讃えることを、生き方の選択における平等という観点から正当化することは難しい。
各共同体には、そのメンバー全員にとっての「良い生き方 good life」の基礎になる、文化的な特性を反映した「共通善 common good」があり、「共通善」に基づいて全員が目指すべき、「目的 end」が自ずから限定されてくる、という目的論的な見方をするコミュニタリアンであれば、この問題を比較的に簡単にクリアできる。スポーツの奨励を通しての健康増進とか、自然科学の振興による国力増進、国のために戦うことなどが、「共通善」に適った「目的」である場合もあるだろう。
サンデル(一九五三― )は、『これからの正義の話をしよう』(二〇〇九)で、目的論の視点に立った財の分配について論じている。何本かの笛があり、それを、あるグループの子供たちに配る場合、誰に一番いい笛を与えるべきか。リベラルな平等論に従って考えれば、くじ引きにするか、そうすることが結果的に全員に利益があるという条件付きで、一番うまい子に与えるか、ということになろう。コミュニタリアンは、笛は何のためにあるのか、その子供たちがどういう集団でどういう目的で笛を配るのを考えれば、一番うまい子に一番いい笛を与えるのは当然だ、とストレートに答えられる。うまい子は、それを与えられるに「値する deserve」のだ。
サンデルはこのコミュニタリアンの目的論の延長で、大学が独自の入試選抜方針を決めることを正当化している。特定の技能を持った人を優先することや、アファーマティヴ・アクションも、大学の目的次第で正当化される。その大学が、アカデミズムにおける文化的多様性を促進することを目的としているのであれば、黒人など文化的マイノリティの学生の数を増やすことに問題はない――リベラルな平等論は、黒人等が被ってきた不正義の埋め合わせとして、有利な扱いを正当化する。
しかし、今年邦訳が出て話題になった『実力も運のうち』(二〇二〇)では、論調が変わっている。能力=業績主義(meritocracy)が次第に強まり、エリート大学への入学競争がし烈になっているアメリカを始めとする先進諸国の現状を概観したえで、能力主義が国家という共同体を蝕んでいることを指摘する。大学の「目的」として、"優秀な学生"を集めることには反対の立場を取っているわけである。"優秀な学生"に拘りすぎると、市民たちの連帯意識を弱め、国を分裂状態に導くので、大学が目指すべき「目的」として不適当だと言っているのである。
大学への入学競争が国家共同体を解体するというのは、日本人の感覚からすると、大げさすぎるような気がするが、サンデルはこれを、能力主義的なエリートを選抜・養成することを高等教育機関のミッションと考える一九五〇年代以降の高等教育思想の転換と、グローバル化と連動した労働市場の流動化という大きな文脈で考えている。
公民権運動に賛同し、各種の差別撤廃に取り組んできた民主党左派などのリベラル派の戦略には二つの方向性があった。一つは先に述べたロールズのように、人種やジェンダー、宗教、親の地位や財産による差別だけではなく、能力による差別も原則禁止し、格差は一定の条件付きでのみ認める、という考え方である。無論、それだけ徹底した平等の社会を、アメリカのような市場経済の下で実現するのは無理なので、あくまで理想である。もう一つは、公正な機会均等を徹底して、出自と関係なく能力がある人がその業績に見合った収入や地位を得られるようにする、という考え方である。
サンデルに言わせると、クリントンやオバマを始め、リベラル派のリーダーたちは明らかに後者の路線を取っており、大学の入試競争が激化するように世論を誘導してきた。アメリカ経済に余裕があり、経済成長の恩恵が全ての労働者に行き渡っているのであれば、大きな問題はない。エリートたちが能力を発揮し、国富が増えるほど、学歴の高くない低所得層の人たちもそれなりに豊かになれるからである。しかし、グローバル化が進み、製造業を中心に生産の場が海外に移ると、低学歴の人ほど失業したり、低収入で不安定な職に甘んじなければならなくなる。学資ローンを抱えて大学を卒業しても、アイヴィー・リーグなどの名門大学でなければ、就職できないという事態も生じてくる。
グローバリゼーションによる労働市場の不安定化が進んでいく中で、リベラルを含むエリート層は、グローバルな競争に打ち勝てる優れた人材を育てよう、というメッセージをより強く発するようになった。彼ら自身がエリートなので当然のことである――サンデルは、アメリカ国民のほぼ三分の二が大学の学位を持っていないにもかかわらず、下院議員の九五%、上院議員の全てが学部卒以上の学位を持っていることなど、政治家の高学歴化を指摘している。グローバル化と能力主義の言説が一体となって社会を覆い尽くすと、それまでは、白人で正社員であるということで辛うじてプライドを保っていたような層に属する人は、公正な競争に負けた、単なる負け組になってしまう。
サンデルは、そうやってプライドを失った人たちにとって、「やればできるyou can make it if you try」、というバラク・オバマやヒラリー・クリントンのような人からのメッセージは、自分が負け組であること、かつて自分より下だと思っていたマイノリティ出身のエリートやアジア諸国の労働者と公正な競争で負けた、どうしようもない人間だということを思い知らせるもので、不快である。
そこにつけ込んだのがドナルド・トランプだ。彼は、メキシコからの不法移民や不当な貿易でアメリカから職場を奪う中国等と対決することで、アメリカを再び偉大にしよう、と呼びかけた。サンデルは、トランプが自分の支持者に、「やればできる」と取れるような能力主義のレトリックを使わず、外に責任を転嫁したことに着目する。多くのアメリカ人は、アメリカン・ドリームの核にある「~できる(した)人は、~に値する(deserve)」という論理に耐えられなくなっているのだ。
 サンデルは、「やればできる」や「値する」が空回りしてしまう現状から抜け出すため、いくつかの提案をしている。エリート大学の入学競争を緩和するため、一定の水準を満たす者から籤引きをすることを提案している。上位の方の学生であれば、大学に入ってからの成績に大差はないので、細かく点数を付けて競わせる必要はないわけだ。しかし、これは、エリート大学の多くが私大であるアメリカですぐに実現するのは難しいだろうし、実現できたとして、学生が大学という共同体に愛着を持てるのかかなり怪しい。
また、「労働」をGDPへの貢献度で測ろうとするのではなく、「共通善」の観点から、つまり市民的な美徳を培い、文化的な価値を実現する営みとして、「労働の尊厳」を見直すべきであり、そのための議論を活性化しようと呼びかけているが、具体的な制度には触れていない。政治家や企業家のレトリックを変えることならできるだろうが、それだけで、低賃金の労働者の誇りを取り戻すことができるのか。 
 日本では、「やればできる」と言いたがる政治家はまだそれほどいないし、政治家の高学歴化もそれほど目立っていない。地方大学の大学教員をやっていると、同僚の出身校は多様なので、研究者レベル養成に関しての大学間競争がさほど激化しているとも思えない。ただ、学生に個別指導する時はどうしても、「大学院進学や就職で、自分が●●に値するものだとアピールできるようにしておかないとダメだぞ」式の言い方をすることになるので、後になって、こういう言い方をしてよかったのかな、と思うことがある。かといって、ドラマのように、「自分の生きたいように生きればいい」とか、「生きがいを感じられるものを見つけられるまで、じっくり時間をかければいい」とは言いにくい。
 十年くらい前、付属高校の先生と話していて、「東大合格者数がこのところ低迷していて、付属高校としての使命を果たせているのか気がかりです」、と言われたことがある。本音はそうなんだろうが、大学の付属高校の使命ってそんなだったっけ、と内心思った、しかし考えて見ると、大学の教員も同じような発想で日々の業務に当たっている。学生も教員も、学力や技能とは別の「~に値する」を見出すべきなのだろうが、それは意識的に努力して見つかるものではないだろうし、具体的な実績の数値抜きに、自分がその共同体に貢献していると確信するというのは、数字で物事を判断するのに慣れた現代人にはかなり困難だろう。

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