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第61回 diorama ー それでも私は、この震える海を渡ろう 伊左治直

今回は、表題の打楽器作品について語ろう。
作曲は2004年。現代音楽のエキスパートである打楽器奏者、吉原すみれさんの委嘱による。編成は独奏またはプラスアルファの助演奏者を加えることも可能な形態になっている。東京文化会館小ホールでの初演は、吉原さんの打楽器と作曲者、つまり私自身の助演(ボイスパフォーマンスや特殊な打楽器など)で演奏された。その翌年05年の大阪いずみホールで私自身がプロデュースした個展では、より編成を拡張していく。そこでは大橋エリさんの打楽器と私の助演の他に、『倍音s(バイオンズ)』のメンバーである尾引浩志、岡山守治の両氏のホーメイや口琴、イギル、さらには手持ち照明などが加わりシアトリカルな舞台となった。

この作品は特殊な打楽器が含まれていることもあり、以後の再演はないと思っていた。ところが今年、つまり2025年に期せずして安江佐和子さんのリサイタルで再演される運びとなった(4月19日、20日の2回公演)。
https://tocon-lab.com/event/20250419
https://tocon-lab.com/event/20250420

ちょうど20年ぶりの再演。正直、作曲者本人も曲の詳細を忘れていたのだが、膨大な楽器を前に安江さんと二人で譜面を検証しているうちに、記憶が蘇ってくる。そして新たな展開の兆しが垣間見えてくる。お互い一人で譜面と向き合っているのとは全く違った、作品世界の「気配」が身近に感じられてくる。

そのような流れから、今こうして作曲経緯を書いている。忘れないうちに。
今回の再演が終われば、(おそらく)次はないとすると、もう思い出す機会がない(かもしれない)からでもある。

*  *  *

そもそも「打楽器」というのは総称であって、固有な楽器名称ではない。今回そこが普段との大きな違いで、まず実際に使用する楽器の選定から作曲の一部になる。

はじめに、ティンパニ。それもペダル付きのティンパニは、その踏み込み加減で自在に膜面の張力が変わり、音程が変わる。この膜面の動きによって揺らぐ音たち。それは潮の満ち引きのようにも思える。
そこで、その円形の膜面上に幾つかの小物楽器を置いてみる。それらの音はペダルの操作によってベンドする(曲がる)。どれもが楽器本来の音から少し歪んでいく。いや、歪んでいくというより、音が滲んでゆくのだろうか。それらの音を聴いていると、楽器を見ている私の眼の焦点も、次第に滲んで合わなくなってくるように感じられてくる。

すると・・・それらは楽器ではなく恰も海上に浮かぶ島や船に見えてきた。加えて、その側にウッドブロックやアゴゴを置けば・・・それらは飛行艇だ。こうして円形の立体海図が生まれてきた。ならば更に、その並行世界(パレラルワールド)、あるいは他の惑星としての太鼓系楽器をいくつかを置いてみると、そこに宇宙が誕生する。シンバルは未確認飛行物体だろうか。

ここで気づく。楽器の編成を考えることは、国生みや天地創造のように神話の創生なのかもしれない。
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diorama(ディオラマ)とは仏語で、古くはギリシャ語のdio(~を通して)とorama(眺め)を組み合わせた造語らしい。そこから(プラモデルなどの)立体小型模型の実景、透視画や幻視画(明治中期に流行った見世物のひとつの、西洋風のぞきからくり)の意味へと、言葉は広がっていった。いずれも、現実とは別の、もう一つの世界がそこに生まれている。

*  *  *

まさにディオラマとして、実際にこうして配置された打楽器群を眺めていると、そこにオブジェとしての美が強く感じられてくる。しかもその楽器たちは、複数の国と地域を出自とする。楽器たちの交わりに、混血、移民、同化、改造、国境など、イメージは様々に散らばってゆく。作曲当時、特に親しんだポーランドの演劇家タデウシュ・カントルのオブジェを思い出す。そしてディオラマのミニチュア世界からの視座と、演奏者の現実の視座との交差。舞台と客席の世界との境界線。それらを思い巡るうちに、奏者の影として、あるいは増殖した異形の者として、もう一つの視座を持つ助演者が存在できる可能性を感じ始めた。
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タデウシュ・カントル『海辺の協奏曲』

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タデウシュ・カントル《最後の審判のラッパ》『こぞ雪は今いずこ』

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この作品は打楽器奏者の独奏でも構わないが、これまでの上演では毎回助演者を加えていた。一人だけではなく複数の人の視点と複数の身体が実際にあったほうが、関係性は複雑になり、逆に世界観がより「わかりやすくなる」と思うからだ。
たとえば助演者の私は「無意味な言語」を話し続ける。それはもちろん国境を意図している。「言葉」が意味を剥がされた「音」になってしまう時、誰にもその内容は伝わらない。あるいは逆に、思わせぶりな憶測からの誤解や読み込みを生んで、別の関係性が生じることもあるかもしれない。一方で打楽器奏者が演奏する音は、実は太古の失われた言葉で、何か具体的な意味を発しているのかもしれない。

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タデウシュ・カントル《ゴプラナと妖精たち》

今回も奏者の安江さんからの提案で助演者が加わる。そのため以前の演奏とは、やや別の形に拡張された新たな「安江版」になるだろう。助演は私と(この演奏会の共同企画者でもある)杉山洋一さんの二人。杉山さんは助演の影であり増殖した助演だ。身体のオブジェに近い存在として、そこに「いる」だろう。ただ「いる」だけで空気が変えられる芸術家でもある。

また言葉と音の関係も更に複雑化すべく、新美桂子さんには曲と同じ題名で新たに詩を書き下ろして頂いた。そしてそれを杉山さんにイタリア語に訳して頂く。その朗読は杉山さん本人だが、言葉は彼の身体とは切り離されて、距離を置かれたスピーカーから音源として流される。川のように。

これがどのような舞台になるのか、今はまだ漠然と霧の中の風景ではあるが、言いようのない期待感を消すことができない。
なにか境界線の裂け目から別の世界が垣間見える萌芽を感じている。

*  *  *

*  *  *
diorama
それでも私は、この震える海を渡ろう
新美 桂子

太陽を背に
父なる川を隔て
寄りあう母音の群れ
向こう岸の親密

姿かたちを変え
海原に流れ込む
耳なじみのない言葉
無口な花嫁

寄せては返す
白波にさらわれ
打ち上げられた星々
潮だまりの鼓動

雨足遠のき
別れの予感を胸に
俄かに飛び去る冬鳥
籠のなかの寒空


最果ての夢に
置き去りの雪景色
指針を狂わす出会い
降り積もる歳月

旅路を先まわり
光を回収する奇術師
虹の麓に散った影 
葉っぱのふくよかな匂い

朝霧が手招く
混沌のはざまに
雲がくれする眼差し
出迎える大木

 
*  *  * 


パーカッショニスト安江佐和子プロデュース il Sole / Y × S Crossing #5 〜杉山洋一 影響を受けた作曲家とともに〜
2025年04月19日15:00開演
2025年04月20日14:00開演

出演:パーカッション:安江佐和子/吉原すみれ
プログラム
・湯浅譲二 「相即相入Ⅱ」(Duo)
・伊左治直「diorama ー それでも私は、この震える海を渡ろう」(安江佐和子Solo, 助演:伊左治直、杉山洋一)
・石井眞木「フォーティーンパーカッションズ」(Duo)
・八村義夫「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」(吉原すみれSolo)
・杉山洋一「委嘱新作」Duoパーカッションのための
料金
一般:4500円(当日券:500円増し)
学生:3000円
チケット予約・お問い合わせ
チケットご予約:https://202504ilsole.peatix.com/
メール予約:prana.sawako@gmail.com
(お名前・公演日・枚数・電話番号をご明記ください)
電話予約・お問い合わせ:株式会社東京コンサーツ 03-3200-9755(平日10:00~18:00)

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害